
いま、地方で生きるということ
書店に並び始めた『いま、地方で生きるということ』について「読み始めた」とか、「いま秋田」「もう福岡」といったツイートを見かける度、嬉しさを感じている。
東北と九州を移動しながらひと筆描きで書かれた本のライン上を、いま、めいめいのペースで移動している人たちが何名もいると思うと、その人たちが実際に旅しているような錯覚が生じて、それが楽しい。
遠野から北上にむかう車中で眺めていた夕暮れの丘陵地の景色や、福岡の街を歩きながら、湿度のある温かい空気が肌にまとわりついてきた感じを思い出しています。
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さて、この本のタイトル『いま、地方で生きるということ』は、ちょうど一年前ミシマ社の三島邦弘さんと会った時、彼が持ってきた紙に書かれていた言葉だ。
──このテーマで書いて欲しい。ミシマ社は週に一度月曜に全員でミーティングを持っているんです。このテーマで西村さんと本をと思って先週みんなに発表したら、全員「いい!」と一致。ここまでみんなの意見が揃うことは滅多にないんです。初めてかも。──
といった話を聞かしてもらって、もちろん嬉しかった。
だから応えたい。けど、このテーマで俺に書けるのか(無理)…というのが、その時の葛藤でした。
そこでとりあえず「〝地方〟ってどこなのかな?」と話を交わしたのは、まえがきにも少し書いたか。
5月に執筆を決め、6月に書き終えて、7月にタイトルは『いま、地方で生きるということ』そのままでどうでしょう? という連絡を三島さんからもらって。
で、先週から書店にも並んだわけですが、僕も最初に戸惑った通り「地方」の二文字に違和感、というかひっかかりを感じる人が、少なからずいるようです。
「どんなつもりで〝地方〟って言葉を使ってんの?」といったふくみのあるメールが、友人からも届くようになった。「地方」という言葉をつかう時点で「中心とその他」という二項対立が設定されることについて、あなたどれだけ自覚的なの? という感じのツッコミ。
でもこれ似ているな。フェミニストが男性性・女性性について語る時の立脚感に。
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僕には地方も地域もなくて、あるのは「家族」ないし「個人」。その集合が地域。それに自然界も加わって地方、という感じです。
東京対地方のような意味合いには、はなから興味ないし、そもそも「地方の時代」なんて言葉もわけがわからない。
「地方」って言葉にカチンと来る人がいることは想像がつく。ある種の屈辱感をともなう言葉かも。
この本を書く直前、僕は福岡の田北さんが以前教えてくれた『裏日本』(岩波新書)を読んだ。この本には、日本が経済成長してゆく過程で「裏日本」が必要とされ生み出されていきた歴史過程が記述されています(しかしすごい言い方だな「裏日本」って…)。
こうした事々は知っておいた方がいいと思う。福島についても同じく。
でもそこで、中央に奪われてきたものを奪取しようとかそういう視点で動き始めると、一気に力を失ってゆく感覚があります。結局、同じゲームの盤上にのることになってしまうというか。
だから、時々耳にする「これからは地方の時代」とか「いま地方があつい」なんて話も、僕はないと思っている。
たとえばこの数年「いま四国がアツイ!」と言う人がまわりに多かった。「キテル!」とか。
でも、そもそも「四国」なんて言葉で一括りにできるの? できない。温度下がったら興味失うのかな。キテなくなかったら、また違う場所に行くの?
こういう言葉を恥ずかしげもなく使える人の気持ちがわからないし、さらにわからないのは、嬉しそうにそれを語るご当地の人たちの感覚だ。
「地域活性化」といった言葉も空しい。使いたくない言葉ベスト10に入っているかも。ワークショップにおける「アイスブレイク」の寒々しさと同じで、「人々は凍っている」とか「地域に元気がない」という見立てが、言葉にプリセットされてしまっているから。
その目線ではありのままの人も、人々も、見えてこないと思う。人と人のかかわりでなく、物語や記号をめぐるかかわり合いになってしまう。
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友人の友廣裕一は二年前、過疎地に暮らす人々をたどって日本を一周する旅から帰ってきた時、
「地域って言葉はどうもよくわからない。以前は地域にかかわる仕事がしたいと言っていたけど、今はあまり使う気になれない。
僕にとってハッキリしているのは、そこには〝家族〟がいたということです。『この家族はいいな!』と思える家族がところどころにいて、そこが力の源になっている気がするんですよね…」と話してくれた。
友人の相澤久美(ライフ&シェルター)が、ラ・ケヤキで「辺境的中心に生きる」というシリーズのイベントを始めている。
主旨に共感。美味しそうだし。相澤さん、頼まれもしないことに次々手を出していてイイナー!と思っているのだけど、辺境とか中心という設定はやっぱりちょっと物語的かも?とも思う。
でもまあタイトルだからな。「!?」となれば、インターフェイスとしての機能は十分果たしているよね。『いま、地方で生きるということ』も、そうか。
ただ、「地方」という言葉についてのスタンスを、少しだけ書いておきたいと思いました。
まったくの余談ですが、『ジョナスは2000年に25才になる』や『光年のかなた』を撮ったスイスの映画監督、アラン・タネールは、1973年に『世界の中心/Le milieu de monde』という作品を撮っている。
この映画の舞台となっているスイス南部・ジェラ山脈に連なる土地は、南北ヨーロッパの分水嶺にあたり、「世界の中心」と呼ばれているそうです。
『いま、地方で生きるということ』を書いて、いちばん良かったと思っているのは、巻末に三島邦弘さんのミニ・インタビューを掲載できたこと(彼はいまだに出版人としてこれは禁じ手ではないか…と煩悶しているようですが)。
「これまでのような『東京』という出来合いのお話しに乗らずに、東京であれどこであれ、自分たちの場所を自分たちでつくってゆくことが、本当に大事な時代が来ているんじゃないかな。
『これしかない』と思えることを、自分たちでとことんやるのがいい。」(三島)
東京も地方だし、その只中にも地方はある。そして世界の中心はスイス南部に限らず遍在する。
そういう場所や人々に出会っていけたら、生きている甲斐があるよね。

by 2011/8/18