
陸前高田に通いながら[前編]
今年の春先から、月に約2回の割合で陸前高田に通っている。震災後の地域の〝仕事づくり〟を目的とする、民間の復興まちづくり会社「なつかしい未来創造」の仕事で。
『人を助けるすんごい仕組み』に登場する重機免許取得プロジェクトの立役者でもある、陸前高田ドライビングスクールの校長、田村満さん。
樽からなにから一切合切流されてしまったけれど、一名も解雇せず再建に取り組みつづけている、創業200年の醤油味噌醸造蔵・八木澤商店の社長、河野通洋さん。
工場(こうば)も資材置き場もすべて流失した建設会社の若き社長、長谷川順さん。

長谷川さんは被災直後、夜は家(浸水域から外れていた)の前で焚き火をして、身体を温めてから寝ていたという。
火があると人が集まってくる。互いの生々しい話を聞き合いながら、その中で中長期的な仕事づくりの必要性を考え始めたそうだ。
上記3名の地元メンバーと、東京のソシオエンジンという会社の人々が、震災後2ヶ月目の頃に陸前高田で出会い、支援とはまた違う協働的な交流を重ねてゆくうちに「〝復興まちづくり会社〟をつくろう」という話に。
ソシオの社員・中野里美さんは住民票まで移し、ほかの東京勢も日増しに本腰を入れてゆくようになる。こうして約1年間が過ぎた。
ちなみに「なつかしい未来創造 株式会社」は出来ることを出来るかぎりやったのち、10年で解散する。
僕がソシオエンジン代表の町野弘明・服部直子さんから「なつ未」への参画依頼をうけたのは、昨年の12月だったと思う。
最初は「オリジナルの商品開発をしてゆきたい。そのブランド・コンセプトのとりまとめと、ロゴデザイン等のディレクションをお願いできないか?」という相談だった。
でも、まだ具体的な商品は姿を見せていなかったし、彼らが最終的につくり出そうとしているのは「地域の仕事と暮らし」だ。
つまり、人々の「営み」のような。本来的には時間をかけて形成されるはずのものについて、コンセプトやロゴマークを先駆けて用意するのは気が進まない。小さな真剣さの積み重ねが、よく出来たゴッコ遊びに回収されてしまうような感じがする。
すでに「なつかしい未来創造」という存在感のある名前があるので(前出の長谷川さんが起案。ラダックの文脈ではない)コンセプトを雄弁に語るより、まずは具体的でわかりやすい活動実態をつくってゆく方がいいのでは? という話を交わして、青木将幸さんをファシリテーターに招いた2回連続のアイデア出しワークショップが実施された。

こうして、『いま地方で生きるということ』での東北行以来10ヶ月ぶりに陸前高田を訪れ、いまそこにいる人たちの一部に出会ってゆく。
本に広瀬敏通さんの「地域に入って、そこで暮らす人々と出会いながら、昔でいう便利屋のように働いてみればいい。彼らが困っていることを、何でも手伝ってみるといい。給料はもらえなくても、生きてゆくための食料は手に入るだろうし、信頼を得れば居場所もできてゆくだろう」という言葉を書いたが、たとえば ETIC. の右腕派遣プロジェクト(記事)を通じて、あるいはまったく個人的な経緯で、生まれ故郷でもなんでもない地域に入り、自分の人生の路筋を辿っている人々の姿を目にした。
追って、それまで無料ブログで運営されていた「なつ未」のウェブサイトを手がける。
なつ未から何が生まれてくるのか、どんな活動を成してゆくのかはまだわからない。彼らも進みながら探っている。なので、できる限り色付けやデザイン臭のないニュートラルな暫定サイトを、赤池 円さん(gram design)らの力を得て形にした。

こうしてかかわりながら、「サイト制作でいくら」「次は×××でいくら」といった単位で仕事を精算するのは難しそうだと感じた。
課題はまだ山積みのように思えたし、一案件ごとに積み上げると彼らの外注費が膨らんでしまう。自分の切り売りのようになってもしまう。
そこで「継続的に参画して欲しい」という言葉を真に受けて、半年更新の契約社員として雇ってもらうことに。社員ならどんな相談事も振ってもらえる。
「西村さんは陸前高田に行って、何をしているの?」と、ときどき訊かれる。
[後編につづく]
*冒頭の写真は、この夏の「けんか七夕」(今泉地区)の一コマ。
by LW 2012/11/10