
陸前高田に通いながら[後編]
[前編のつづき]
「西村さんは陸前高田に行って何をしているの?」と、ときどき訊かれる。
なつ未のミーティングに参加しながら、必要だと感じたことを提案したり、しなかったり。思い付きやアイデアを提案したり、しなかったり。
しないことの方が多い。呑み込んで、様子を見ている時間の方が長いと思う。「この話になると元気になるんだな」とか「ここでよくループに入るな」とか「あの人のことを気に掛けているんだな」とか。
あと、人や場所を紹介してつないでいる。その際には、なによりも相性(あくまで予想)を重視している。
陸前高田の広大な浸水域について、他の被災地と同じくUR都市機構が数年がかりの区画整理を進めている。その間に地域を離れて、内陸部(盛岡や北上など)に「仕事と暮らし」を移してしまう人は少なくない。

嫌な表現だが、歯が抜けるように仲間を失いつづける地元の人たちの気持ちは、いかほどのものかと思う。同時に離れざるを得ない人たちのことも想像する。
もともと人口減少方向にあった同市にとって、こうした転出は歯止めをかけられる類の話ではない。
けれどピンチはそれまでツルツル滑ってばかりだった壁面に生まれた一つの手がかりではあるので、なにかのチャンスには必ず出来る。
同市で古い歴史を持ち、なつ未のメンバー・河野さんの店や住まいもあった今泉地区から、住民間の動きが生まれ、他地区に先駆けて9月にまちづくり協議会が形成された。

このサポートにソシオの町野さんらが奔走。彼らの考えや期待を具体的な形にするべく小さな予算(国の調査費)を確保して、現在2組のプロが外部からかかわっている。
中越地震で被災した山古志という山間部の集落の復興住宅づくりに携わった、アルセッドという建築設計のチーム。あと、ランドスケープ・デザイナーの長谷川浩己さんと石井秀幸さんらのチーム。
長谷川さんは通常の仕事なら、プランや模型を形づくる前に十分なプロセスをとる。
クライアントや、とくに中間にいる代理店やコーディネーター・ポジションの人はすぐに「具体的な絵」を求めがちだけれど、それはビジョンの共有を進めるように見えて、個々の都合や思惑をいたずらに浮上させ、人々をただの烏合の衆にしてしまい兼ねない。
そのことや、絵が一人歩きを始めることへの経験則的な懸念があるのだと思う。
しかし、国や行政が引いてゆく復興スケジュールは、その速成に追い打ちをかける。
彼らは奥尻島や神戸・永田地区の先例のような、産業および人口がマイナス方向にあった地域で土木・建築系の復興を急いだ結果、それが後年大きな負担となっていった(ように見える)過去の経験をどう捉えているのだろう?
話が逸れました。
早期の絵づくりに抵抗はあるものの、長谷川さんは「でも、そう言ってられない状況なのだろうし…」と呟いて、武蔵野美術大学・大学院生数名の素晴らしい協力を束ねて、ある考え方をくっきり示すプランと模型を短期間で形にした。

いま今泉の人たちは、それをつかいながら市役所と話を交わしている。
間をつなぐ町野さんたちの動き方にもバランス感があり、長谷川さんたちの案の示し方にも慎重さがあり、下手をすると対立構造にも陥りかけない地域住民と市役所の関係もいまのところ平和な真剣味を保っているように見える。
この件について、僕は長谷川さんを紹介した(知り合いだったので)。初期の長谷川チームの相談相手になり、一緒にエリアを歩いて大掴みな方向性を話し合い、あとは様子を見ている。
様子を見ながら、またなにか「必要」を感じれば少し動いたり、人や事例を紹介したり、ときには半ナマのアイデアを提案する。
小さな必要に応じながら、出来るだけ「なつ未」やその周囲の状況の近くにいて、彼らが「する」ことを「可能にする」ような試みを重ねてゆければと思っている。
そんな感じなので、「そこで何をしているの?」という質問にはやっぱり答えにくい。
最近はミーティングの進行役を担っていることが多く、ここ半年ほどなかなか越えられない山の存在を感じていたのだけれど、先週のミーティングで、メンバーが尾根筋に出て眺望がひらけた感じがあり少しホッとしている。
そもそも「最近なにしているの?」という問いは苦手で「はい、働いています」という感じなのだけど、近年は陸前高田に限らず、同じように成果物単位で表現しにくい仕事が増えている。
つくっているのがモノではなくプロセスで、しかもイベントのように期間が切られていないことも多い。
仕事と言いながら限りなく「人間関係」に近いので、「自分が(あるいはリビングワールドが)」手がけたと述べるようなものでもない。相互関与の一部始終でしかないから。
したがって、もちろんサイトの「Works」のような分類枠では扱い難い。生きている関係を、標本のようにピンで止めて見せるのは、なんというか。
by 2012/11/10