Dec 8, 2019

先週立ち寄った「Title」で諸星大二郎の2020年カレンダーに出会い、購入をためらった。いまカレンダーは難しい。使わないからなあ。日本の住まいは壁も少ないし。しかしなんちゅう絵だろう。なに考えてんだ、この人。素晴らしい。

二日ほど前、青山ブックセンターで『増補新版 いま、地方で生きるということ』(ちくま文庫)の出版記念イベントがあり、松葉杖をついて九州から来てくれた田北雅裕さんと話した。会場には「田北さんは今日が初めて」の方も多い感じがし、彼がどんな人なのか?の共有に少し時間を使いすぎて、交わしたいと思っていた肝心の話は見事に時間切れとなった。

終わってから、田北さんと晩ご飯を食べつつ交わした言葉を少し書きとめておく。イベントの最後に紹介したのは、直前に彼から届いた以下のメールだった。

岐阜ではありがとうございました。サバティカルの個人的なテーマのひとつは、「課題を解決しようとしてしまう自分と向き合う」なんですが、登壇されたみなさんのスタンスに、大いに感じ入るところがありました。

岐阜とはこれ。で、主題は「課題を解決しようとしてしまう自分と向き合う」。このことも少し語り合えたら、と事前に交わしていた。

課題や問題が好物で、やたら解決したがる人たちがいる。個人についてもあるいは地域についても。僕がそういう手合いをやや苦手とする理由は、心理学でいうところの「投影」や「転移」が見受けられる気がするから。全部が全部そうではないだろうけど、少なくない気がする。
自分の中にも「課題を解決しようとしてしまう自分」は感じていて、わきまえが必要、とみずからを律している部分があるものだからなおのことそうなる。ってことはそれ自体が投影だよね、という話であったりもする。

田北さんは「解決が必要とは言い切れませんよね」と言った。たしかに課題や問題には、たとえば〝ひとまず避けておく方がいい〟ものもある。回避したり、置いておいたり。すべてに「とき」があるので、タイミングではないことに手出ししてもうまく進まなかったり、逆に複雑にしてしまうことがあるよね。

つづけて「解決でなく〝課題を抱きしめる〟という言葉を聞いて」。と、NPO・抱樸(ほうぼく/旧 北九州ホームレス支援機構)の奥田知志さんのことを聞かせてくれた。

「でも自分は課題や問題に、デザイン的にアプローチしてしまうところがある」と。

彼も僕も出自は〝デザイン〟で、その基本姿勢が染みついている。デザイン的なアプローチとは、「問題の本質を理解する」「改善にむけた方法を具体化する」ことだ。「なんだかなー」「けど難しい…」とか言いながら足踏みしていないで「じゃあこうしよう」と提案しながら、事態を前へ進める。つくりはじめてみないとわからないことについては、プロトタイピング(試作)を重ねる。
とにかく1mmでも前へ進もうとするのが、デザインワークの基本姿勢で、それは良さでもあるけど、必要なアプローチはそれだけではないよな…ということを、田北さんはとくに対人関与の場面場面であらためて感じている、という話。

昨夜、東京都美術館の稲庭彩和子さんと来年2月のフォーラムにむけたメールを交わしていたら、その中で彼女は「アートは課題を抱きしめてきた。ヨーゼフ・ボイスしかり」と書いていた。列車が小淵沢に着きます。

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