
Sep 27, 2021
田瀬理夫さんが、リンケンの田村浩一さんが今年1月にお亡くなりになっていたことを教えてくれた。リンケンは山口県柿木村にある工務店で、2度うかがったことがある。
知り合いが逝ったと聞いても、「そうか」「おつかれさま」と胸の中で頭を垂れて、引きずりはしないことが多いのだけど、田村さんのことはとても寂しく感じている。心の中の、太陽(恒星)が一つ消えてしまった感じだ。
出会いは、2015年頃にひらかれた町の工務店ネットのイベントだったと思う。担当したレクチャーのあとで彼が話しかけてくれた。『ひとの居場所をつくる』を読んでくださっていて、「僕も田瀬さんとやりかけているプロジェクトがあって!」と楽しげに聞かせてくれた。
当時私は神山町に引っ越して1年経ったかどうかという頃で、中山間地の景観形成に、農業や土木工事のあり方はもとより地域の工務店が大きな影響力をもっていることをヒシヒシと感じていて、それもあって田村さんの仕事に強い関心を持った。すぐに柿木村を訪れた。
神山町役場の知り合いに声をかけると「行ってみたい」と二人一緒に付いてきて、田村さんが改築したご実家の古民家に寄せてもらった。


このときの体験が、神山町の地方創生「まちを将来世代につなぐプロジェクト」第1期の、古民家改修プロの起点にあたる。
彼が工務店(リンケン)を営む柿木村は、最寄りの益田市から車で45分程度の山あいにあった。その立地は徳島市と神山町の位置関係にも重なる。でもそんな中山間地の小さな工務店が、益田や広島までも仕事の場を広げていたし、ベネッセ直島のアートプロジェクトでも建築工事を請け負っていて。地域工務店の可能性は大きいな。すべては経営者の好奇心次第だな…と感嘆した。
田村さんは村に「欅がるてん」というカフェ(文化的なたまり場)もつくっていた。音楽が好きで、レコードの枚数もかなりあったと思う。それを聴いたり、みんなで楽しめる空間が欲しかったんだろう。


建物はたとえ個人の所有でも、風景の一部を構成する社会的共通資本だ。センスがよくて、働き者の工務店の存在が、地域に与える影響力は大きい。
感じるものが多かったので、その1年後、今度は神山の若い大工さん2名、製材所の後継ぎ、家具職人、水道工事の兄ちゃん、移住交流支援センターの担当者、町役場の住宅担当、町出身の建築設計士など、若手数名とマイクロバスに乗り合わせて田村さんを再訪した。

リンケンは製材所も抱える工務店で、若い職人さんもちゃんと雇い上げて育てていた。地域の古い家々を直しながら、あるいは新たに建てたり、住まいから始まる地域づくりをどんなふうに考え試みているか、根掘り葉掘り聞かせてもらった。





田村さんには出し惜しみというものがなかった。「ちょっと面倒くさいな」みたいな気配は皆無で、なんだかそういう弁がついていない。自噴する泉というか、存在がギフト(贈与)のよう。
一緒に行った若い大工さん2名は、互いに神山生まれの同級生で、私も出会って間もないこの頃は30代中盤だった。人口が減り、新築の仕事はなくなってきた山あいのまちで、これから自分の仕事をどう展開してゆけばいいか悩んでいたと思う。
さらにその片割れは、一緒に働いてきたお父さんが少し前に急死されて、だいぶ肩を落としていた。柿木への旅に誘うのも少し難しかった。

夜、田村さんがお酒を酌み交わしながら、その彼をくり返し励ましている姿や声を離れたところから見ていた。夜通し励ましていた。有り難い気持ちでいっぱいだった。
大工さん2名は、その後「大埜地の集合住宅」という公設の賃貸住宅づくりで腕を振るうことになる。横に並ぶ第1期の二棟を、それぞれが職人さんや下請けさんを手配して二人が建てた。

建設には、工務店側にも資金力が要るし、慣れている伝統的な日本家屋とは異なる、設備的な試みも多い物件で、仮に落札してもやりきれるかどうか?という不安があったようだ。そんな中たまたま参加した東京の建築セミナーで、彼らは偶然また田村さんに会ったらしい。そして「また激励されたんです」という話を、つい先日聞いた。
田村さんには本当に力をもらったと思う。「なにもしていませんよ(笑)」と言われると思うけど、関心を寄せてもらうだけでそれは力になるんだ。
2年後、同じ集合住宅の4期工事で、彼ら大工2名が二棟目を手掛けているときも、田村さんは現場を訪れてくれた。全国各地の工務店の代表が並ぶ前で緊張した面持ちで語る二人の姿を、嬉しそうな笑みを浮かべて聞いていた田村さんの横顔を憶えている。
私たちは日々ご飯を食べて生きている。けど、人から人に直に流れ込んでくるエネルギーたるやいかほどのものかと思う。付き合いが深くはないけれど、私は田村さんに会えてよかった。本当にありがとうございました。