Oct 9, 2021

神山にいた数年間の中でムカついた話を。どれにしよう。

地方でよく耳にする「地元と移住者の軋轢」みたいな話は、このまちの場合さほど激しくない。不動産・住宅情報サイト「LIFULL」の総研が出している今年の研究調査レポートは副題に「寛容と幸福の地方論」とあって、地域の寛容性に着目しているが、神山の文化的な寛容さは高い方だと思う。

これは慣れもあるんじゃないか。神山のアーティストインレジデンスは、始まってもう25年目くらいで、その積み重ねも効いていると思う。

最初の頃は、海外から来たアーティストが「外人、外人」と子どもたちがあとを付いて来るとうんざりしていたという笑い話や、「裸足で歩いている乞食のような人がいる」と噂になっていたとか、そんな昔話を聞いたことがあるけど、これまであまり直に会ったことのない、特異点のような「アーティスト」という存在がくり返し世界から訪れる中で、地域の方々の受容性の幅が少しづつ広がって、たいていのことで驚かなくなった部分はあるのかもしれない。

ダイナミックレンジが広がって、いろんな人が来ても、その広い幅のどこかには収まるというのはあるのかもしれない。

地元と移住者というより、移住者と移住者のヒリヒリするつばぜり合いはあるよな。よそから越してきた人が、同じくよそから越してきた他の人にむしろ不寛容なことがあるというか。これは、移り住んで来る人の多い地域ではよく起きているんじゃないかと思う。

いや、そんなことよりムカついたのは、神山について「もう旬は過ぎている」とか「オワコン」と言われたと聞いたとき。直接耳にしたわけではなくて、まちの別の人が、都会の友人に言われたとか、まちづくりの専門家が話していたと聞かせてくれたことがあって、これはかなり腹が立った。

いま実際に暮らしている人たちがいて、それぞれ懸命に生きているだろう地域について、なんでそんな言葉を吐けるんだろう。正気か?と思う。まちは消費の対象ではないだろ。しかもそれを大学の先生や、まちづくりの専門家が言うかね?

その言葉は、日本の現況を嘆いているわけだし、かつそのまま本人の人生に跳ね返ってくるっていう自覚はないのかな。

一人だけ、面と向かって私に「神山はたたみ方を考えた方がいいですね」と述べた人がいた。この人は徳島の方で、以前から神山町とはモゴモゴという噂を聞いていたから「おー、言うなあ」と思いつつ受け流したが、本人の意図はともかくこの言葉自体には含蓄があると思う。

私たちの社会(日本)は、成長とか発展をよしとする価値観にまみれたままで、逆に、役割を終えた活動をいい形で終えてゆくとか、しっかりふりかえるとか、たたんでゆくとか、そういう価値観の醸成やトレーニングの機会がきわめて少ないと思うので。

でもね、それはやっぱり初対面の人に言うことじゃないですよ。いろんな人がいるなあ。

ムカつきながら考えたことを少しだけ書いた。この数年間、いいことも嫌なこともいろいろあったが、いずれにしても感情が動くことは多く、生きている実感はあった。

たまたま同じタイミングで仕事を移すことになった東京の友人から昨日届いたメールの中に、「私にとって居心地が良い場所だな……となったときには、その環境にいる必要はないのではないか」とあり、そうだなと思う。楽するために生まれてきたわけじゃないし、楽でないなりに出来たこともあった。

 

追記:
Diaryには「いま」のことがいいので、神山のふり返りのつづきは、場所をnoteに移して書くことにした。
https://note.com/lw_nish/m/m04c73a37fa4e

 

*LIFULL HOME’S 総研「地方創生のファクターX|寛容と幸福の地方論」
https://www.homes.co.jp/souken/report/202108/

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