自分の至福?
白川郷自然學校を会場にしてひらいたワークショップフォーラムNが、昨日終了した。
参加者の24名とスタッフを含む全29名は、暮らしている街も、仕事や活動領域も違う。そんな者同士で、「自分をいかして生きる?」というテーマを軸にした、二泊三日を過ごした。
「フォーラムN」は、環境教育や体験学習・人間関係トレーニングの分野で活動を重ねてきた西田真哉(牧師でもある)と、ワークショップを通じた人々の関わり合いに半生を投じている中野民夫(愛・地球博「地球市民村」を手がけた博報堂のプロデューサーでもある)と、そして西村佳哲の三人を軸にした全三回のフォーラムで、今年が第一回。辰巳真理子(ETIC.や仕事の学校にも関わる)を事務局に、会場づくりには西村たりほ(リビングワールド)が腕をふるっている。
まだ先の話だが、第二回は来年の5/27~29。場所は中野民夫が屋久島の南斜面に建てた、本然庵というワークショップ・ハウス。定員16名。現時点の仮テーマは「自然という自分」。
初日は周辺の雪景色の中を歩き・駆け回り、夜は僕が「自分をいかして生きる?」というフォーラムの問いかけについて、めいめいが吟味する導入のワークを担当。
その中で、「自分の至福は?」という問いも投じた。
一晩あけて、午前中のワークは中野民夫が担当。
バックキャスティングに象徴される、ビジョン投影型の歩みの進め方。Be Here Nowや「今・ここ」といったフレーズに象徴されるタオ的な世界観と人生観。
つまり、未来を目指す生き方と、今この瞬間の充実を大切にする生き方の両方が、どっちもどっちで、自分の中でも混在しているんだ…という話を語り、その後もうひとつ別のアプローチとして、ジョセフ・キャンベルの「神話の力」を引き合いに出してきた。
キャンベルは神話学者。スターウォーズの脚本を書く際、ルーカスはキャンベルの仕事をその足がかりにした。
「神話の力」はビル・モイヤーズというジャーナリストを聞き手にしたキャンベルの対話集で、僕が 自分をいかして生きる を書く原動力となった一冊でもある。
中野さんは先月、椎間板ヘルニアで入院した。その病床で「神話の力」を読み返し、あらためて感じ入る部分が多々あったらしい。「それをみなさんと共有してみたいんだけど、どう思う?」…という感じで、本の中からいくつかのフレーズを読み上げていた。
キャンベル:人々はよく、われわれみんなが探し求めているのは生きることの意味だ、と言いますね。でも本当に求めているのはそれではないでしょう。人間が本当に求めているのは〈いま生きているという経験〉だと、私は思います。
上に転載したのはその一部分。この言葉は僕のど真ん中にくるものがあって、泣けてしまう。
ビジョン投影型のそれも、タオ的なそれも、世の中にある多くの自己啓発的なアプローチは、「こうすればいいんだ」とか「簡単なことなんだよ」という具合に、生きることの勘所を単純化しようとする。
そして「早く楽になってください」とでもいうようなストロークを投げてくるものが、どうも多い。
それらに感化されて、生きてゆくことの困難さや悩ましさが軽減されたり解放されたという人には、他人にも同じものを薦めてくる傾向がないか。
たとえば、自分がある悩ましさについて語り明かしている時も、この手の人たちはそれを一緒に聴き・感じようとする…というより、「こうすればいいのに!」という解法の方に気がいってしまって、気持ちには寄り添ってくれない感がある。
自分が学んだことを他の人とも共有したい!という単純な欲求があるのかもしれないが、「早く楽になってください」は、その人の「楽になりたい」という気持ちから来ているのかも。
「こうすればいい」とか「こうなっているんだよ」という具合に、物事をシンプルにして、人間を楽にしようとする力に出会った時。湧き上がってくるのは「僕の人生の手応えを、勝手に奪わないでくれ!」という声だ。
楽になるために生きているわけじゃない。折角生まれてこうして生きているのだから、生きていることを十分に味わいたい。自分なりの歩み方で。その邪魔をしないで欲しい、という気持ちが浮かんでくる。
痛みや辛さで目一杯になってしまって、自分に由ってものごとを感じたり・考えたり・動くことがどうにも出来ない。そんな極限的な状況にいる人には、本人が望むなら、ホスピスで行われるモルヒネをつかった痛みの除去のような緩和処置も有効だと思う。
しかしこうした緩和ケアが社会全体にわたって慢性化してしまうと、わたしたちは生きているんだかなんだか、よくわからなくなってしまうんじゃないかな。
キャンベルに話を戻すと、「神話の力」の中で彼がくり返し語っているメッセージは、「自分の至福を追求しなさい」というものだ。
キャンベル:自分の幸福について知ろうと思ったら、心を、自分が最も幸福を感じた時期に向けることです。本当に幸福だったとき──ただ興奮したりわくわくしたりではなく、深い幸せを感じたとき。
そのためには、自己分析が少し必要ですね。なにが自分を幸福にしたのだろう、と考えてみる。そして誰がなんと言おうと、それから離れないことです。
前夜の僕のプログラムにも顔を出し、中野さんのキャンベル紹介を通じて、より強いスポットライトがあてられたこの「自分の至福」という言葉。
ある参加者は「至福って、使い慣れない言葉で、うまく捉えきれないなあ…」と語っていた。
そして夜、西田さんのワークが開かれた。
内容は、自分の全生涯にわたる横向きのライフラインを、幸せか・幸せではなかったかという縦軸に振り分けながら一本の線で書く。いまふり返ってどう思うかではなく、当時どう感じていたかに沿って書き、自分が死ぬ年齢も想定して、残された生涯のラインの揺れも書いてみる。
その作業の後、「自分がやってみたいこと」を、あまり考え込まずに短時間で20個書き出す。そして「それにはお金が必要か」「一人で出来るか」「リスクを伴うか」などの複数の観点でチェックし、最後に「この後の1~3年以内に、やらないわけにはいかない重要さをもつものを3つ選んでみる」というものだった。
西田さんはそのワークの最後に、「自分は〈自分をいかして生きる〉というより、やりたいことをやって、生きてきました。皆さんもぜひそうしてみて欲しい。そして今日リストにあげたことを実際にやったら、僕にも教えてくださいね(笑)」と話していた。
彼がそう話していたわけではないけれど、この西田さんのワークは、「至福とはなんだろう?とか、自分の至福はなにか?ではなくて、いま本当にやってみたいことを、本当にやっていくことに時間をつかって生きてみない?」という投げかけだったように思う。
別の言い方をすると、「どうすれば自分をいかして生きれるか?ではなく、実際に、自分をいかして生きることに時間を使ってみては?」ということ。
「至福」とは「この上もない幸せ」を指す言葉だ。たとえば「たまらない」こと。
「自分の至福を追求しなさい」と言われると、なにかスゴイことをしなければ…とか、こんな仕事をしていますと言える社会的な成果を形にしなければ…、という思いにとらわれる人がいるかもしれない。
が、山の頂のように見える人生のイベントがここでいう「至福」なのではなくて、いまどんなふうに呼吸するかとか、どんな姿勢で歩いたり、椅子に腰掛けるかとか、どんな声で語り、どんな関係をまわりの人たちと結び合うか…といった、みずからの心を満たすささやかな事々の積み重ねがそれを形成する。
山の頂きのように見える仕事も、そうした細部の積み重ねによる裾野をもって、成り立っているのだと思う。
by 2010/3/8