
朝
早く目が覚めたので、善福寺川の方へ歩きに行った。夜明け前。でも、歩いている人は少なくない。
明星を眺めながら、年末まで友人がカフェをひらいていた古い平屋まで歩く。
立て直しが決まり、カフェは30日で終了。そこに居場所を見出していた人たちは淋しいだろうな。出て行く人より、残される人の方が喪失感をおぼえやすい。
帰り道、もう空は明るくなり、星は見えなかった。
朝の空気を味わったり、朝の時間を想う時、かならず思い出すことが二つある。
一つは上の写真。これはサウンドバムの旅で10年前に訪ねた、極東ロシアのクラースヌイ・ヤール村で撮った朝焼け。真ん中に牛がいる。
朝は急には来ない。時間をかけて滑り込んでくる。
鳥も一斉には鳴かない。いろんなサイズの鳥、そして他の生き物が順番に目を覚ましてくる様子に耳を傾けていると、朝はいろいろな楽器の音が響く交響曲のようだ。こんなことが毎日起こっている。
その前線は東京から西へ向かい、今頃ベトナムの森を賑やかにしている。でも、また二十時間も経てば地球を一周して、ふたたび東京を鳴らす。
で、なぜクラースヌイ・ヤール村の写真を思い出すのかはよくわからない。たぶん、いい朝だったのだろう。
もうひとつは、猪谷六合雄さんの文章。
猪谷さんは、日本のところどころに小屋を建てて暮らした、不思議な人だ。
どう稼いでいたのかはよくわからないのだが、猪谷さんを慕う人は多かったようで、INAXギャラリーが2001年に開催した展示「猪谷六合雄スタイル/生きる力、つくる力」とその本が素晴らしかった。
思い出すのは、この本の冒頭にある、彼の暮らしの中の朝の描写です。以下、少し長いけど転載する。
「私たちは早起きだったので、たいがい日の出前に起きていた。
薪ストーブが燃え立って、部屋の中が暖まるころに千春(息子)も起き出してきて、私の向かい側の腰掛けの窓際に陣取る。そしておのおの、書きものをしたり、勉強したりする。
やがて夜も明けはなれて、ナラの梢の上の空が少しずつ青さを増してくるころ、いつも私たちは、小さな丸いテーブルを囲んで朝食を摂りはじめる。
するとまもなく、前の急な斜面の奥まった上のほうに、爽やかな赤みがかかった朝の陽が柔らかく射しはじめて、それが明るさを増しながらだんだん下の方へおりてくる。白樺の高い梢は白く黄色味をおびて輝き、澄んだ青空の色をいよいよ深くする。
まもなくその明るい林の色は、白湯にひろがりながら賑やかに押し寄せてきて、斜面の雪の上にも、ナラの木の根にも、いきいきとした明暗を描きだす。それが前の斜面いっぱいにひろがるころになると、こんどは小屋の湖の側に並んでいる窓ガラスが急に明るくなりはじめる。
そしてジャックフロストの絵のような模様の上へ、現像液の中の印画紙に現れてくる影像のように、ナラの大木の影が映しだされてくる。最初は淡く柔らかく、それが見る見る濃くなってきて、目のさめるようにクッキリと浮きだしてくる。
それがまた水晶細工か何かのように、チカチカと細かく輝いて窓一面に躍動する。
みんな最初から気がついて、箸を休めては山のほうを見たり、湖のほうを見たりして感心していることもあるが、だれかが何か仕事に気をとられて知らないでいるような時は、それを最初に見つけたものが、見なさいよあの窓を、などといいだす。すると千春は、はしゃぎだして、覚えたての英語でどなりたてたりする。
それが、晴れてさえいれば、私たちの間で飽きもしないで、毎朝くり返されるのだから、われながら不思議な気もした。
私たちはどうかすると、この次はどこへ引っ越そうかなどという話が出ることもあったが、この小屋の朝日のことを考えると、ちょっとよそへ行ってしまうのが惜しい気がするのだった。」
日常の美しい細部に、心をひらいて生きてゆきたいと思います。
by 2011/1/4