
出会いをかたちに
最近好んで行うワークショップに、「〝その場に居合わせた人がすべて方式〟で…」というものがある。
2009年に奈良で開催された「自分の仕事を考える3日間」の第1回で、ゲストの豊嶋秀樹さん(当時graf)が「ミッションや目標ありきで人を集めるより、その場に居合わせた人で出来ることを始める方が無理がないし、自分はそうしたい」「三人いれば何か始められるんです」と語り、「じゃあここで試してみよう!(豊嶋)」といきなりやってみたもの。
無作為な三人組をつくり、その面子の組合せで出来ることを、その場でつくり出してみる短いワークショップ。
豊嶋さんも気に入ったらしく、その後も機会があれば手がけているようだ。
僕がこれを好ましく感じている理由はなんだろう?
たぶん、よく言われがちな「自分がやりたいことを見つけてそれを実現しよう」といった夢や人生に対する期待の持ち方に、不満があるのだと思う。
『自分の仕事をつくる』というタイトルの本を書いたことに対する、勝手なアフターケアなのかもしれない。
〝自分の仕事〟を自分だけで探す必要はないし、つくる必要もないと思う。夢を形にしてゆく生き方より、いまは出会いを形にしてゆくそれや、能力に惹かれる。
もちろん、ミッションや目標を明確化して進める仕事が悪いわけじゃない。
でもそんなふうに進められるのは、人的資源の豊富な場所に限られるんじゃないかな。都会なら、描いたミッションや目標を達成するプロジェクト・チームもつくりやすいかもしれない。
が、地方都市や片田舎でそれは難しいと思う。理想的なコンセプトやプランを描いたところで、絵に描いた餅になりやすいだろう。
「いいけど、誰がやるの?」とか「そうは言っても、○○さんはああだし」みたいな。
ないものねだりは格好悪い。いま冷蔵庫にあるもので美味しいものをつくって食べるような能力が、仕事づくりやプロジェクト・ビルディングの現場で、より必要なのでは? という気持ちが、次第に強くなっている。
素晴らしいビジョンを描いて、でもそのように実現出来ずに後で「本当は…」とか口にするダサさは遠慮したいし、陥りたくもない。
そもそも「自分がやりたいことを実現する」ような夢の抱き方はとても個人主義的だと思う。こうした個人性は西洋化の過程で一般化してきたものであって、この島国で生きてきた人種の本来のメンタリティではないんじゃないかな…とも思う。
昨晩、代官山の蔦谷書店で、大阪の山納洋さんらと語るトークイベントがあり、一緒にマイクを握ってきた。
山納さんは大阪ガスの社員でありながら、扇町ミュージアムスクエア(文化施設)、扇町メビック(インキュベーションセンター)、大阪21世紀協会など、本社以外の出向職場を意図的に転々としながら、日替わりマスター式で運営するコモンカフェや、六甲山カフェなどなど、さまざまなプロジェクトを形にしてきた市井のプロデューサー的存在。
(彼のインタビューは『自分の仕事を考える3日間 Ⅰ』弘文堂 に収録されている)
以前「一人の人生において(山納さんのこと)、こんなにいろんなことを形にしてゆけるものなんだな…」と半ば呆れて伝えたとき、「僕は〝自分以上にそれをやりたい人〟と出会っていることに気がつかれています?」という戻しがあった。
たとえば矢崎町のコモンカフェには、日替わりでいろいろなマスターが入る。昼と夜で別の人が担当している日もあるので、本当に無数の人々によって場が成り立っている。
そこには、山納さん以上にマクロビオティックの食事を出してみたい女の子がいるし、山納さん以上に雑貨について人と語り合いたい人がいる。
彼らは「好き」であったり「やってみたい」欲求の強度がかなり高くて、あとは場とタイミングさえあれば本当にやるし、出来るだろうな…と山納さんが感じた人たちなのだと言う。
コモンカフェに限らずどのプロジェクトも合気道的というか、彼(山納さん)が「やりたい」ことを実現するために人材を見つけて形にするのではなくて、彼以上になにかを「やってみたい」人と出会い、そこに力を添えるというか、合わせてゆくような形でさまざまなコトが実現している。
これはとても重要なポイントだと思う。
「自分がやりたいこと」を実現しようとしている限り、そのために見つけ出した仲間は、常に「自分ほどじゃあない」だろう。
自分が思い付いたことについて、自分より正確に捉えることが出来て、さらに自分以上に本気になれる他人は原理的に存在し得ないと思う。そんな都合のいい話はないはず。
だから下手をすると、創業社長や言い出しっぺは常に孤独だ。
メンバーの動きの不十分さに気を揉んで、つい動機付けやモチベーション・マネージメントに関する本を読み、人に対して恣意的にかかわってしまうこともあるかも。でも仮にそれで人が思惑どおりに動いたところで、本質的な淋しさは変わらないと思う。
「あなたはわたしではないし、わたしはあなたではない」ことを十分に了解した上で、自分のではなく、自分たち(わたしたち)の夢を一緒に見たり描き出してゆく技術やセンスの共有がこの社会に必要なんじゃないかな…と思っているのだけど、それは他でもない僕の課題だ。
〝その場に居合わせた人がすべて方式〟が妙に嬉しかったり、山納さんや『なんのための仕事?』にご登場いただいたエフスタイルの二人のような、出会いを形にしてゆく働きぶりに強く惹かれるのは、自分の〝実現OS〟のバージョンの古さというか、夢や期待の持ち方に関する更新欲求があるのだと思う。
by LW 2012/9/7