ひとの話をちゃんと体験する

16-1-2 西村佳哲

年末、信州で五泊六日の「インタビューのワークショップ」の時間を、12名の参加者とすごしてきた。家に帰り、その六日間をときどき思い返している。

初めてこのワークショップをひらいたのは、たしか2010年だ。2009年に『自分をいかして生きる』という本を書いて、それまで3年ほどたまに開催していた、働き方や仕事をめぐるワークショップが出来なくなった。
やる気がしないというか「本に書いたし」という気持ちが強く、他にもいろいろ思うところがあって。

でもワークショップは、もう少しつづけてみたかった。自分が機能する感覚もあり、ファシリテーションをもう少し掘り下げてみたかったのだと思う。

ちょうどその頃、奈良のフォーラム「自分の仕事を考える3日間」が始まり、あらためて複数名とインタビューを交わす機会を持つ。
その準備過程で、自分のインタビューが最初に働き方研究の連載原稿を書いていた30代前半の頃と随分違う様相を呈していることに気づき、「じゃあこれでやってみようか⋯」と思った瞬間に京都精華大から公開講座の相談をいただいた。

5年間、取り組んできたわけだ。

これは頼まれてやる仕事ではないので、自分が飽きてしまったらそこまで。「いつまで出来るかな」と、ときどき思う。石村由起子さんの「〝飽きない〟ようにするんが〝商い〟やと思うわ」という言葉を思い出したり。

ワークショップと銘打っているけど、期間中はファシリテーターというより、山岳ガイドのような気分ですごしている。
ひとの話を「きく」ことをめぐるちょっと深い山があり、僕はその山が好きでしばしば歩き回っているが、すべてを知っているわけじゃない。
その山に12名のメンバーと登り、立ち寄れる場所に立ち寄って、しばらく時間をすごしたり景色を眺めたり。美味しいご飯を食べて。初めての場所に出たり。最後は中腹あたりまで降りてきて、そこで現地解散することが多い。

どんな道行きになるか?は、毎年ちがう。

六日間を経て次第に埋まってゆくホワイトボード。

ところで、このワークショップでは、人の話をきくとき、自分(西村)はいったい何をしているか? ということを思い返しながら、ある種の「きき方」を提案してゆくのだけど、その作業を通じて自分のきき方やインタビューが小さくなってしまう危険性を、今回帰ってから思った。

自分の解説に自分が影響を受けて、編集されてしまうというか。既知のものになってしまうというか。

もっと説明不可能で、わけのわからないことを自分はやっているんじゃないかな?
人とインタビューを交わしているとき。たとえば「そこ、もう少し詳しくきかせてください」と相手の話に分け入ってゆくとき、いったい何を手がかりにその入り口を判断しているんだろう。
自分がなにをしているのか、とうの自分は実はよくわかっていないし、捉えきれてもいなくて、それでもインタビューはある状態に達する。

そのわからなさが面白いんじゃない?
本当に面白いものって、なぜ面白いのかわからないから面白いんだよな、という当たり前のことを思い出した。

私たちは人の話をきいていても、それをちゃんと「体験」していない、とつくづく思う。
ききながら「こうすれば」とか「あの話とつながる」とかつい考えてしまって、話半分できいていることが多い。で、考えているとき、もう話はきけていない。

人の話をちゃんと体験するのは、怖いことかな。

大丈夫だよ。他人なんだから。どんな話もあくまで他人事である、というわきまえは大事だ。
とか、つらつら考えているけれど次回は4月なので、その頃にはすっかり忘れているはず。
というか沈殿しているはず。そしてまた新鮮な気持ちで取り組み、いろいろ思い、忘れて、またやるんだろう。この仕事は大切にしたいと思う。

by LW 2016/1/2