言葉の話
最近、世の中で「言葉」の重みがどんどん軽くなっていて、ほとんど意味のない独り言のようなものになっている気がする。
約束を守らないのは政治家だけでなく、僕らも平気で後から修正を加える。あるいは「ああは言ってみたけど」と平気でくつがえすことが増えている気がするのだけど、これは自分の話でしょうか!?
蓮實重彦と養老孟司が、ある対談本で同じようなことを語っていました。
大衆化した情報社会では、国語能力は当然低下するし、いまや言葉は使い捨てになっているという話。
僕らは先日WORDPRESSというblogシステムを基盤にこのウェブサイトをリニュアルして、さて書こうと思えば毎日のように書けるぞ……
でも今ひとつ筆が進まない。
なぜ?と自分をみていると、どうやら言葉が消費されること自体に抵抗があるみたいだ。一時代前の文筆家や編集者のよう? どうなんだろう。
以前友人たちに送った近況メール(’05/08)に、次のような余談を書きました。
いま展覧会の展示日誌を兼ねてblogを公開しています。
毎日のように書いているし、よく出来てるなあ>Movable Typeと関心するのだけど、僕自身はblogをめぐる状況がそれほど気に入っていない。
という話を、スターネット・スタッフの高田さんに話したら「すごく意外」というリアクションがあり、ワケを説明した。
まず一つは、blogでの私記は第三者に読まれることを前提に書かれている、ということ。それ自体は問題ではないが、その構造下で多くの人がついとってしまう「こんなに面白い(あるいはツマラナイ)」「こんなに幸せ(あるいはメチャ不幸)」といった、自分の人生のプレゼンテーション感が辛い。
んなの人の勝手だが、なぜ辛いかといえば、そこに雑誌などの影響が色濃く出ている気がするから。
雑誌の取材記事は、たいてい「こんなに素晴らしいモノ・コト・人がある(いる)」といったスタンスで表現される。それを誌面でご紹介しましょう、という感じで。
でも、実際に取材してみたら思ったほど良くなかったとかイマイチだったということは往々にしてある。が、取材先への仁義もあるし、雑誌としては「余所にない面白いこと」を並べる必要があるので、それはそれという感じで「面白い記事」がジェネレートされる。
広告を含み、雑誌全頁にわたるこの血圧の上がった感じが、自分はあまり好きでない。
文章を書くことは、自分と対話する貴重な手段だ。
せっかくのその体験が、自己演出によるねじれを持ってしまうことや、マスメディアの表現習慣からろくでもない影響を受けてしまう(と僕が勝手に見受けているだけの話だが)のは、「モッタイナイ!」ちゅうか。
もうひとつ。
自分が感じたことを文章にするのは、そんなにインスタントに出来ることではないよな、と思う。深く感じ入ったこと、「わかった!」と思ったことでも、言葉で語れるようになるには時間が要ることもあるし、ましてや文章だと、内容によっては3年とか5年とか、平気でかかるよなあと思う。
折角の体験や感情を、あり合わせの言葉で書き出してしまうのは、やっぱ「モッタイナイ!」ちゅうか。
表現力やボキャブラリーに乏しい状態で、でも豊かな経験を記述しようとすると、それは詩のようなものか、あるいは平面的な作文になりやすい。実際、子どもの遠足日記のような「楽しかった」「面白かった」という平たい感覚表現が、多くのblogにならんでいるように見える。
日本人は読み書きの基礎教育がある程度なされているため、文章を書けると勘違いしている人が多い。「絵は苦手で!」と赤面する人は多いが、「まるで文章書けなくてー!」と謙遜する人の割合は少ない。
表現力の貧弱さから、折角の自分のかけながえのない体験が矮小化される可能性がある(と勝手に危惧してるのだが)、ということを意識しているblogの書き手は多いかな。
以前、作家の駒沢敏器さんとお話していて、旅の体験記事を書くと、自分の記憶が再編集されてしまうということ。書き残したことだけが鮮明に残って、あとのことは忘れてしまうことがある。あるある、という感じで一瞬盛り上がった。
これと同じで、その時の自分にはまだ表現しきれなかったことを、沈殿させる時間を得ないまま流してしまうようなことが、もし随所で起こっているとしたら、なんだかなあと思うわけです。
人間の大仕事は、確かに「人間関係」、人付き合いである。
どの書店でもコミュニケーションに関する本は淡々と売れつづけているし、人が職場を変える理由の筆頭は、自己実現をめぐる悩みより人間関係のそれが多いらしい。
でも、人付き合いが上手な人は多いが、「自分づきあい」の上手な人は少ないかも、というのがここ1~2年よく考えることで、自分自身も同じくと思う日々。
僕ら(リビングワールド)は、デザインやモノづくりの仕事をしている。あるいは展覧会の空間をつくったり。
その僕らがウェブサイトで言葉を連ねる意味は、なんじゃろう?
読み応えのあるアウトドア雑誌はバカらしい。
試合中の野球場で、ワンセグのTV中継を見ている姿はどこか妙だな。
「とにかく情報を出していることが大事なんだよ」とKさん。「東京は情報でモノが売れる」とHさんは言う。「毎日更新すれば人は来る」と言う人もいます。
それはそうだろうし、彼らはビジネス的にも成功している。でも、その人間理解を前提にしたコミュニケーションって、どこか相手をバカにしていないだろうか?というか、その扱いは結局自分たち自身に跳ね返ってくる気がする。
このサイトは僕らの個人blogではない。日記ではない。
でも、リビングワールドの仕事を通じて出会った人のこと、学んだこと、気づいたこと、出かけた場所について書くだろう。探検報告として。
先日、仕事で出かけた青森で、今年の夏にオープンした青森県立美術館に出かけ、5時間近く滞在した。
大量の縄文土器に圧倒されていたんだけど、ちょうどサイトをリニュアル公開した直後で、いろいろ見ながら「このことをどう書こう」と考えている自分に気づいて、こわくなった。
誰かに報告するために生きているわけじゃない。
でも煎じ詰めていえば、誰のどんな表現にも、その真ん中の芯の部分には「自分はここに居ます」というメッセージがある気がする。
それが悪いとは思わないが、度を過ぎると他人のことでも恥ずかしい。自分たちのことなら、なおさらだ。
えらく長くなりましたが、そんなことを考えながらモノづくりやデザインの仕事をしている。そして、ウェブにテキストを書いています。(西村佳哲)
by 2006/11/25