なにがどう美味しいかは本人の問題
リビングワールドは井の頭線・永福町にあり、我が町が誇る店といえば、お蕎麦の黒森庵と、ピザのラ・ピッコラである。
前者については次の本(9月刊行予定)で、蕎麦打ちの加藤晴之さんをご紹介させていただいている。その影響で店の列が伸びるようなことはないと思うが、より多くの人と彼らの仕事(蕎麦)を共有できるのは今から楽しみだ。
ラ・ピッコラはイタリアから来たマッシモというピザ職人が焼いている。すごく美味い。
永福町は長らく美味しいものに恵まれず、外から来る人には「駅前の大勝軒いつも並んでますよねー」とそればかり言われて閉口していたのだが、マッシモの来日は本当に嬉しかった。これで永福町にもようやくお客さんを連れて行ける店が!と小躍りして喜んで、以来数年間、ヘビーローテーションである。今週末も行く。
ただ、最近マッシモが元気なさそうな感じで、気になっている。確か一年ほど前に日本人の嫁さんをもらって、えらく上機嫌だったが…。
パイプ管を切って小鉢をつくり、店で使ったレモンの種をすべて発芽させて、店の入口の少し横にある棚で育てている。アボガドもクルミも発芽させている。
彼の心根の優しさが伝わってくる園芸棚なのだけど、見ているとちょっとドキドキする。こないだ開店前に通りがかって、苗木を手入れしているマッシモと少し立ち話をした。思わず「発芽させてから、どうするの?」と尋ねたら、その問いには無言だった。ごめんマッシモ。
近いうちに茶店に連れ出して、彼の話を聴いてみたいと思う今日この頃である。
永福町の食自慢を書きたいわけじゃなかった。渋谷の話を書こうと椅子に座ったのだが、その井の頭線の片方の終点が渋谷である。
もう片方の終点は吉祥寺で、ここは美味い店が多い。最近時々行くのは、ベースカフェというマクロビの定食屋カフェだ。以前、森田さんが手がけていたfloorのあった場所で、坊主頭の女の子と、あと若い連中が手伝って店を切り盛りしている。
いや吉祥寺じゃなくて渋谷。マークシティの五階にあるカフェ・エスタシオンは弊社の第二会議室であり(井の頭線は廊下)、渋谷で食事をする場所を探す機会も多い。
駅から遠いのでなかなか足を伸ばせないが、いまこうして思い浮かべると真っ先に行きたくなる店のひとつは、南青山の定食屋・一汁三菜である。
私は生まれが日赤中央病院なので、子どもの頃は病院といえば渋谷からバスに乗って日赤に通っていた。その旧正門のちかくに、武蔵美時代の同級生の佳子ちゃんが、焼き魚を軸にしたカウンター形式の定食屋を始めた。三年前ぐらいからだと思う。資生堂を辞めて焼き魚、ってだけですでにいい。ここは美味しい。
渋谷で美味しい焼き魚定食をフツーに食べられる店は、大戸屋の焼きサバを除いて考えると、あとわたしが知っているのは松涛の下にある八竹亭である。学生時代からよく通っていて、その頃は小沢健二さんもチャリで通ってきていた。
当時カウンターの中に二人のおっさん+パートのおばさんでやっていたが、おっさん二人はどちらも一癖あって、喧嘩別れしたようだ。今一人でやっているおっさんにそのネタを振ると、なんだかよくわからないことを呟いて最後に「ケッ」という感じになる。
こう書いていると嫌な店な感じだが、お味噌汁も魚もご飯も美味しい。
その美味しさは名店のそれではなく、「僕これで十分です。ちょうどいい!」という感じの美味しさだ。冷静に考えれば、お味噌汁は少し味が濃い気がするし、サラダのドレッシングも少し減らしてもいいんじゃないかと思う。またどれも小ドンブリで出てくるので、すこし量が多すぎる感もある。
でもそんなことに目くじらを立てるはずもなく、のれんをくぐって引き戸に手をかけた時点で、気分はもう「美味しくいただきまーす」である。味がどうこうだけでなく、ここで、こんなふうに店やっててくれて有り難う!しかも結構美味いし。おっさん長生きしてね!という美味しさだ。
このロジックでいけば、「もうまずくて最高!」という店も世の中には多々あるはずで、料理そのものはそれほどでなくてもついつい行きたくなるような店は、同じ渋谷だとたとえば道玄坂のカレー屋・ムルギーだろうか。どうだろう。
ところで大学生の頃、この八竹亭でブリを頼んだ。焼き上がってきたブリはむちゃくちゃ美味しそうで、わたしは小躍りして「マヨネーズください!」と言った。
おっさんは「マヨネーズ!?」と聞き返してきた。約1秒のリアクションだが、最後のあたりには「ふざけんな」という叫びが色濃く混ざっていた。が、わたしは嬉しさでいっぱいだったのでまるで気にせず、「そうですマヨネーズ。醤油と付けてブリ食べると美味しいから。おじさん試したことない?」と、いたって無邪気であった。
醤油皿にマヨネーズを加えて食べるとマグロの刺身が美味しい、ということを最初に発見したのは遠洋漁業の漁師たちであると「美味しんぼ」のどこかに書いてあった気がする。
我が家はお婆ちゃんの花嫁時代のニューヨーク暮らしがたたって、娘の秀子さん(母)はケチャップ味と醤油味ゴチャゴチャで育った感があり、その味覚世界で育った自分も洋味と和味のミックスチャーにあまり抵抗がない。それどころか、ご飯にバターとか、焼いたブリにマヨネーズという組み合わせは小さな頃からのわたしのフェバリットで、八竹亭のカウンターで思わずそれを露呈してしまったわけだが、おっさんの機嫌はもう元に戻らない。
ブツブツ言いながら小皿にマヨネーズをのせて出してくれたが、こっちが美味しく食べている間もカウンターのむこうで「あり得ないだろう」とかブツブツ呟いている。他の客にも同意を求めている。わたしも段々申し訳のない気分になってきたが、まあその時は美味しさの方が勝っていて気分は上がったままだった。
お勘定を払う時は、おっさんはもうこっちの顔を見てくれなかった。次に行った時も、顔をのぞかせただけで嫌な顔をされて(常連なのに)、元に戻るのに半年以上かかったと思う。
こないだ参宮橋のオリンピックセンターでワークショップを終えて、なんかメシでも…と思いながら渋谷方向に歩いていると、誰かのコンサートの帰りのルヴァンの甲田幹夫さんとつれ合いのマコちゃんと道でばったり出会った。甲田さんは焼き魚に目がない。八竹亭にさそって、一緒に焼き魚を食べる。
カウンターの中で、いまは一人で切り盛りしているおっさんと談笑しながら魚の皿を受け取りつつ、『いまここでマヨネーズを頼んだら…』とか思う。そのまま大根下ろしと醤油でいただく。美味い。でも本当はマヨネーズもちょっとつけて食べたい。
もし自分が料理店をやっていて立場が逆で、お客さんから同じように頼まれたら、素直にマヨネーズを出したいし、「これ付けると美味しいの?」と関心を持ってたずねてみたい。
もし漬け物を出して、お客さんに「醤油と味の素ください」と頼まれたら、「ごめんうちに味の素はないなー」と素直に謝りたい。
そうできるかどうはわからないが、こっちの定規で測って「それはないだろう」という対応はしたくないと思う。なにをどう美味しいと思うのかは本人の問題だから。
まあ我が家でもまったく使わないが、たとえば「味の素」は巷で悪者になりやすい。「中華料理店の大半が最近は味の素をつかっている」と嘆く人は多い。で、そういう言説に触れると『そうだなー』と思うと同時に、つまんない話だなと思う。ただの話題のようにも聞こえる。『でも美味しく食べている人はいるだろうな』とも思う。
なにを美味しいと思うかに、正しいとか間違っているとかはない。でもこういう議論になると、正しさの方が強い立場をとりやすい。
味の素の是否をつめれば、そりゃもちろん味の素は分が悪いと思うけど、本当にだめだこりゃ!となれば、自然に消えてゆくだろう。マクドナルドに至っては前社長の「人間は10歳までに食べたものを一生食べる」という人間観で子ども時代の私たちを狙ってくるため、複雑な問題は多々あると思うが、それはまた別の話。
イデオロギーが入ってくると、とたんにコミュニケーションがとれなくなる。このことに注意したい。
最近二冊目の本を書き終えて、まだ入稿前で「ほんとにこれでいいのかな」と読み返しているのだが、気をつけたいのはこの部分なんだよな…と思った。
本にまでするからには、そこに書いていることが独り言だとは思っていない。このこと、みんなも感じているんじゃないかな…と思いながら書く。
でも、俺が思っているようにみんなも思ってくれー!という引き込みが強くなってしまうと、それに同化するか、近寄らないという選択肢でしか関わりようがなくなってしまうように思う。
ワークショップのような場でも、開かれていて、やりとり可能な存在でいたいし、本を通じて他の人たちと関わる時にもそのようにありたい。
自分はあくまで、自分の視点を描写しただけのことで、それは他のひとたちにとって是ではない。それでも、そのなにかを共有できる人たちがいるんじゃないか…と思いながら書くわけで、モノを書くってのはかなり微妙な行為であるなあ、と思う。
追伸:外食ばかりしているように思われるかもしれないが、今日も自宅で手料理に舌鼓を打ちました。基本的には家で食べてマス。それがいちばん美味しい。
by 2009/6/24