書評を書いて
漆作家・赤木さんの本「美しいこと」の書評を書いた。
依頼されて書く書評は、自分が読んでいない本、読むつもりのなかった本を突然読み込むことになるので、逆に面白い。(以下転載)
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子どもは、ただ生まれてくる。どう生まれるかは考えない。ただ全力で生まれてくるし、その後もどう生きるかなど考えない。ただ瞬間瞬間に全存在を投じてゆく。しかし自意識が芽生え自分を他人と比較できるようになる頃から、「ただ生きる」ことは難しくなる。
赤木明登という漆器作家が敬愛するつくり手を訪ねて回った探訪記だ。1962年生まれ。編集の仕事を経て、26歳で輪島塗の職人に弟子入り。32歳で独立。国内外で展示を行い、弟子をとるようになり、工房も大きくなった。世間的には十分に成功した工芸作家の一人である。が、内面には近年ちょっとした不一致感があったようだ。それは名が通るに従って纏わされ、みずから纏ってもきた作家としてのエゴと赤木さん自身のズレのようなものなのだろう。
技やスタイルは大切な力能だし、周囲の期待もありがたい。でも、生まれてきた時のようにただ生きたいし、仕事を始めた頃のように、ただつくりたい。そんな希求を強く抱いた彼が、敬愛するつくり手たちに無垢な懸命さを見いだし、近づいてゆく。憧れの打ち明け方は正直で、ずっと年下の昔のお弟子さんにも同じ眼差しをむける。
登場する19名のつくり手に共通して感じられるのは、一言でいえば「自由」である。この言葉は自らに由る(よる)と書く。つまり手足を縛られていないとか選択肢があるといったことが自由なのではない。その人の中心から溢れて出てくるもの、本人に由来を辿ることが出来る動きや働きに私たちはこの言葉を与え、憧れる。簡単なことではないから。
本の中にエルマー・ヴァンマイヤーという人が赤木さんに向けて語った「美しいものとは、その人の内側にある精神がきちんと現れたものです」という言葉があった。その通りだ、と思う。彼の目と心を通じて登場する一人ひとりとの出会いに、思わず呼吸を深くしながら、嬉しい気持ちで読み進むことができた。
不満な点があるとしたら山口信博氏の装丁が美しすぎることだろうか。美しいものは味わいたいが、美しそうなものは要らない。赤木氏が辿ったつくり手としての逡巡は、美しさを求めてのものだったとしても、もっと辿々しく、生々しいものだったろうと想像する。アーティストの仕事は人々の目の前でめくるめく失敗し、かつ成長してゆくことでもある。つくり手として赤木さんはこの逡巡を経て、今頃どのあたりを歩いているのだろう。いつかご本人に会ってみたい、と思いながら本を閉じた。
塗師による本だが、工芸や美というより彼自身のあり方をめぐる話なので、「自分」を生きることを求める人々にはその感覚を共有できる貴重な一冊になっていると思う。
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最後の方で、山口さんの装丁に一言もの申していますね。いつも「きれいだなあ…」と思っているくせに(山口さんのグラフィックを)、なんで一言いいたくなったんだろう。
実は山口さんでなく、赤木さんの書き口に違和感を覚えているのかもしれない。
書かれてる逡巡や探求が、本心からの切実なものだとしたら(そう読めるが)、本なんか書いてる場合じゃないだろう。本ではなく器づくりを通じて示すのが、あなたの仕事なんじゃないの?と思う部分があったのだと思われる。
書かれている内容には共感できるのだが、体現されている〈あり方〉に違和感を抱いているんだろう。
そして、その装丁を手がけた山口さんに「そういうのを美しくパッケージングしていいんでしょうか?」と思ったのだろう。「美しいものは味わいたいが、美しそうなものは要らない」と書いているが、これは山口さんに対してはむしろ言いがかりで(すみません)、赤木さんの文章に向けたものなんだなあ、と今は思う。
いや、自分に向けた言葉なんだと思う。このように放った言葉は、そのまま自分にはね返ってくる。「きみ(自分のこと)こそ×××なんかしている場合なのか?」。
by 2009/7/4