いい仕事って、なんだろうか

今週の木曜日頃から、二冊目の本が書店に並びます。ピンクの帯。タイトルは「自分をいかして生きる」。

編集者は前著と同じ安藤聡さん。晶文社からバジリコ出版に移り、でもこの原稿を待ってくれた。「結局、前と同じぐらい時間かかりましたねー(笑)」。
安藤さんとたりほには、途中の情けない草稿に何度も目を通してもらってきたので、本当に頭が上がらない。

昨晩、元リクルート「WORKS」編集長の高津尚志さんが主催する小さなサロンに寄せていただいて、この本を書くに至った経緯を少しお話しした。その一部を、ここに再録してみようと思う。

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前著「自分の仕事をつくる」は、31才の頃、AXIS誌の連載として始めた働き方取材がベースになっている。これは大きな会社を辞めた自分が、自分の働き方をつくらないと…という思いも兼ねて出かけた取材行で、尊敬するつくり手たちが一体どんなワークスタイルを通じてその仕事を手がけているのか、を尋ねて回った。

彼らが施していた具体的な工夫をいろいろ教えていただいて、激しく参考になったのだけど、そのうち働き方は異なるめいめいに、共通した何かがあるように思えてきた。一言でいうとそれは、「この人たちは〈自分の仕事〉をしている」というものだった。数年後、その気づきは本のタイトルにつながった。

〈自分の仕事〉という物言いは、〈他人事の仕事〉への反意でもある。「こんなもんでいい」という態度は、仕事を通じてそのまま人々に伝わる。明示・明文的に示されていなくても、人間は自分がどう扱われているかということについて極めて敏感な生き物だ。そのように行われた仕事は、表面でなく、人間の心の奥の方を少しづつ傷つけているように思う。
この人間疎外は、同時にその働き手自身も疎外する。他人に対してとる態度は、そのまま自分自身への態度でもあると思うので。「こんなもんでいい」と力を抜く時、私たちは自分自身も手放している。

前著の前書きで「なぜ多くの人が、自分を疎外しない働き方をできないのか?」という問いを書いた。が、その自問は放たれたままになっていたので、この本を書くことになったのだと思う。

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ところで僕は中学生時代はマンガが好きで、高校生時代は自主映画製作(8mm映画)に関わり、予備校時代に大友克洋さん(当時29才・AKIRA執筆直前)と出会い16mm映画の製作に加わっていた。この頃、大友さんや江口寿史さんといったマンガ家の人たちの周辺にいて、彼らの遊び方や仕事の仕方を眺めていた時間は、後の自分に大きな影響を与えていると思う。

で、美大に受かってデザインを学び始める。その最初の頃は「格好いいデザイン」が好きだった。が、そのうち「格好いいのは格好悪い」と思うようになる。会社で働き始めた頃は「いいデザイン」という言葉を使うように。そしてそのうち、「いいデザインより〈いい仕事〉」ということを、強く思うようになった。
デザインがいいとか悪いなんてどうでも良くて、〈仕事〉としていいかどうかということが自分には重要なんだ、とハッキリ感じ始める。

でも、〈いい仕事〉とはなんだろう?

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僕はデザイン教育を受けてきたこともあって、「よく出来ているモノ」に弱い。理にかなっていたり、少ない部材で十分な機能を発揮しているものに出会うと、思わず「はぁーっ」と感心してしまう。
しかし、よく出来ていればいいってもんじゃない、とも思う。たとえばマックシェイクのストローの太さが、吸引時の口のまわりの筋感覚が乳児がおっぱいを吸っている時のそれと同じ体感になるように設計されている…という話をどこかで読んだことがあるのだが、これはよく考えられ、よく出来ているデザインの一例なのか。それとも人間に対する一種の冒涜なのか。

よく出来ていれば納得できたり、満足できるわけじゃない。若い優秀な(そんなふうに見える)自称・社会起業家たちが展開している仕事の一部について、僕はあまり腹に納まらないものがあるがあるのだが、機能的な合理性やよく出来ているかどうかといったこと、また社会的な正しさも、どうも本質とは違うことのように感じている。

〈いい仕事〉という言葉を私たちは、選りすぐりの料理人の仕事や、サッカー選手の胸をすくようなプレイに与えることがある。でも、高度な技術や厳選された素材がその条件であるとも思えない。
技術的にはそれほどでもなく素材もそこそこでも、十分に満たしてくれる仕事はある。そういうものに触れてきた記憶は、ありありとあるんですよね。

丁寧に行われていることがポイントなんだろうか。そうとも思えない。丁寧さは、ある種のあり方が自然に伴う結果に過ぎないようにも思える。
友人の岸野雄一はスタジオボイス誌のレコード評の多くを、レコードを聴かずに書いていた(と仲間内では言われている)。でも十分に面白く、僕はその仕事に大満足だった。この例は極端すぎてハズしているかもしれないが、場合によっては時間も手間もかけずにザクッと行われた仕事でも、「ん!」と、喜びや合点が感じられるものはある。多々ある。

では〈いい仕事〉とは、いったいなんなのだろう?
 

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逆にどんな働きに接している時、自分は不満足感をおぼえたりエネルギーが下がるか?を考えてみると、「その人がそこに〈いない〉感じがする時」という言葉が浮かんでくる。
あくまで僕の場合ですが、でもここは複数の人と共有できるんじゃないかな…と思いながら書いている。

その人がそこに〈いる〉感じがする人と、目の前にいるのに〈いない〉感じのする人がいるなあ、ということを前から思っていて、僕は後者に不満足感を覚える。その空しさは、あるたぐいの仕事に触れたときに感じる、つまらなさや虚無感と似ている。
飲食店の店員が、バリトン歌手のようにヘソの前あたりで両手を上下に合わせて「ありがとうございました」とお辞儀をする。あのスタイルをよく見かけるようになったのは、ここ数年のことだろうか。研修会社を通じて広まっているのだと思うけど、あのポーズはいったいなんなんでしょう。僕にとっては意味不明である。

表面的なコミュニケーションの形式や、立場や役割、そういったものを楯にして、本人自身が、今ここで感じていることを明かさない人は関係性を冷やす。どんなにきちんとしていても。機能は満たしていても、心は満たさない。

お辞儀の話は唐突な一例にすぎないが、たとえばミーティングの席で誰かが思い切ってアイデアを打ち明けて、でもそれに返される言葉が「先例は?」とか「部署に帰って検討します」とかであったら、当然のようにエネルギーは下がる。アイデアを口にした本人だけでなく、ミーティングの場全体のエネルギーがズッと下がる。大袈裟な言い方になってしまうけど、存在が交わされないから。
でも、今ここで感じていることが率直に語って返されるなら、その内容が賛成であれ不賛成であれエネルギーは上がる。(人をコントロールしようとする言葉ではなく、感じたことをありのままに打ち明ける言葉なら)

互いに〈いる〉ことが、なによりも人に力を与えるんじゃないか。
つまりなにをしているかではなく、どんなふうに私たち一人ひとりが存在しているか。どんなあり方で、めいめいの働きを成しているのかということ。わたしたちが仕事を通じて交わし合っているのは、実はなによりもその部分で、飢えもそこにあるんじゃないだろうか。
 

だとしたら、仕事を通じて自分が〈いる〉ことがなぜあまり成されないんでしょう?…ということになり、最初の問い「なぜ多くの人が自分を疎外しない働き方をできないのか?」に話が戻る。
このことについて思うところ、感じるところを、書けるだけ書いてみました。前著は「働き方の探検報告」でしたが、今回の本は、長めの手紙のような一冊です。
 

読んでみようかな、と思われる方へ。Amazonでも買えますが、近くの本屋さんで本の佇まいをご覧いただいて、相性が良さそうだったらお求めいただくのが一番いいなと思っています。
リビングワールドの他の品物と一緒に…という方は、SHOPページからどうぞ。

 

by LW 2009/9/15

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