ミルフィユ02(smt)
せんだいメディアテークから『ミルフイユ 02』という機関誌が届いた。「地方の文化生成の現場」から、知や人との繋がり方を伝える試みで、今号が二冊目だという。
テーマは「あたらしいあそびばをつくる」。smtを設計した伊東豊雄さんの鼎談や、写真家・藤岡亜弥さんの写真などふんだんに収録されていて、今月末からメディアテークのナディッフや全国書店で発売される様子。どうぞ、お求めください。:-)
その一角に「生き生きとした場をつくる?」というテキストを寄稿した。
今週末、F/Style(五十嵐恵美+星野若菜)やOPUS(大阪)の神崎恵美子さん、東北大の本江正茂さんらと「なんのための仕事?」というタイトルで小さな場を持つのだが(申込み受付終了)、その場にも関連するものがあるような。
また先週、桑沢デザイン研究所を会場に開催された「サステナブルデザイン国際会議」における自分(西村佳哲)の語り方というかあり方に関する反省も含み、以下に転載しておこうと思う。
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生き生きとした場をつくる?
遊びの中で、上手にそれをやれる人間は、小さな頃から注目を浴びる。缶蹴りで鬼より早く走り、遠くへ蹴飛ばせる子。野球やサッカーが上手で、同じチームになると勝ちを取りやすい子。彼らはスター・プレイヤーだ。
が、自分には上手く遊べる人間より、遊びをつくり出す人間の方がヒーローで、英雄性も高い。どんなに人気のあるミュージシャンより、ロックやヒップホップといった表現分野をつくり出した人間の方が眩しいし、同じく優れた人気デザイナーより、ポストスクリプトをつくったアドビの開発チームや、Macintoshのつくり手たちの方に軍配が上がる。
様々な文化的領域をみずから形づくる人たち。切り拓いた場所を愛して、率先して遊び・楽しむ人。たとえば10代・20代の頃の僕には、ソニーもそんな存在のひとつだった。商品についても技術についても、漁夫の利を狙う二番煎じの仕事はしない。常にその分野を拡張するパイオニアで、後から参入してきた別の企業がより賢い商売をして稼いでも、さらに新しい場を拓いて先へ進む(たとえばベータ、VHS、そして8mmビデオの流れのように)。彼らが次にどんなものを「これ、どう?」と差し出してくるか、いつも楽しみでワクワクしていた。
しかし、30代になった自分が実際にソニーと仕事をする機会を得て気づいたのは、そこで出会った社員の大半に、さほどパイオニア性が感じられないことだった。たまたま僕が出会った数名の話であってどう考えてもサンプル数は少ないが、就職先として新卒の人気が高い他の企業にも同じような印象がある。
つまりその場が魅力的になってから、イケてる感じになってから憧れを持って近づき加わろうとする人たちは、ファンやフォロアーであって、メンバーではない。格が違う。
遊びは、格が違う者同士では成立しない。遊びとはお互いの力や可能性を確かめ合うような時間なので、ある程度「格」が揃っていることは欠かせない要素だと思う。手応えのない相手と遊んでも、一言でいえばツマラナイわけだ。
いまこう書いてきた僕は、人間を大きく二種類に分けていることになる。「人がつくった場で遊ぶ人」と「みずから遊び場をつくる人」。
お客さんとして誰が用意してくれた遊びやサービスを享受するのが楽しい人間と、その立場では済まない、つくり手であろうとする人間がいるとして、あきらかにその後者に感情移入しているわけだが、「なんて偉そうな視点でひとを見ているんだろう?」と思う。自分に。そして危ないなあ…と感じる。
人間は、ひとが用意した遊びを楽しむのが好きな生き物である。エネルギーを燃やせる対象をいつも探していて、その手っ取り早い手段の一つが「買い物」であり「消費」であり、魅力的なそれを与えてくれる場所や人のもとに自然と集まる。まあ、確かに。
しかし、おそらく同時に、用意されたお膳立てだけでは物足りない生き物でもある。本来的にはみずから遊びをつくるのが好きで、それをつくり出すことに誇らしさも感じ、その遊びに人を迎え入れて共有できると嬉しくなる生き物でもあろう。
人間という生き物は多面的で、たとえば一人の人間の中に、この全てが同時に具わっていると思う。そしてどの面が前面化するかは、目の前の相手がどんな人間観をもって自分に接してきているかに由るところが大きい。
平たく言えば、自分を信じてくれている人の前では力を出しやすいし、信じていない人の前では力を出しにくい。
子どもの遊びであれ、大人のプロジェクトであれ、影響力を持つリーダーやファシリテーターのような人物が、集まった人々に対して抱いている人間観が、場に大きな作用をもたらす。さらに言えば、メンバー同士がお互いをどうみているかということも含めて、場の質や空気感が形づくられてゆく。
僕が「人がつくった場で遊ぶ人」と「みずから遊び場をつくる人」という具合に人間を分けてみていれば、目の前の人々もそのように二極化しやすくなる。
見立てや主観でそうなるといった認知の話ではなくて、目線の先にいる人間のあり方が、投じられた目線から質的な影響を受けるという話だ。
さて。徳島に、子どものフリーキャンプが得意な伊勢達郎さんというファシリテーターがいる。TOECというフリースクールの代表でもあり、野外活動プログラムや教科プランをあらかじめ用意せずに、子どもたちとその場で、学びや遊びをつくり出してゆく達人とよばれている。
7年ほど前にインタビューの機会を得た際、彼は開口一番にこう語った。「場に対して一番大きな影響力を持っているのは、ファシリテーターのあり方です。技術ではないよね」。
ワークショップやファシリテーションを学び始めて間もなかった自分にとって、この一言にはインパクトと真実味があった。
大学で教えながら、語っている内容より、それをどんなふうに語っているかということ。どんなふうに学生たちの前に立ち、どんな姿勢で、どんな呼吸をして、目を見たり、時には伏せたりしながら、どんな感じでそこにいるかということの方が、学生たちの授業に対する姿勢、さらに言えば「あり方」を強く左右していると感じていたから。また、ある小学校を訪ねた時、担任の先生がまとっている存在感や空気感が、そのクラスの子どもにまったく同じようにうつっている様子を目の当たりにしたことも思い出して。
人間は呼応する生き物で、あり方が、あり方に応じる。
ファシリテーターには場を読む力が必要だ、とよく言われる。参加者の状況をしっかり把握できるとか、空気を察することが出来るとか。
これは、用意したプログラム案や進行イメージに囚われて、参加者の様子が見えなくなりがちなファシリテーターをいさめる言葉だ。
確かに、携えてきた計画や想いで目一杯・手一杯になってしまうと、コミュニケーションをとる余裕は失われる。場を駆動するのはプランではなく、ファシリテーションでもなくて、コミュニケーション。交わし交わされるやり取りだ。
では場が読めればいいのか? 状態を察しながら、やり取りを交わして、如才なく進めることが出来ればそれでいいのだろうか? そうとも言い難い。たどたどしい下手な進行で、でも温かく、実のある感じがして、みなの参加意欲も納得度も高い場をつくり出せる人もいる。
進行の巧さやつつがなさといった話ではなくて、その場に温かさや手触り、深みといった質感が宿るかどうかは、場をリードする人が自分の外側だけでなく内側で起こっていることをどれだけ感じているか。胸のうちや腹の底の方からあがってくる、まだ言葉にもならないような自分自身の声にどれだけ耳を澄まし、実感に触れているか。
人々の前に立っている自分が、今この瞬間、ここでなにをどう感じているかという、ライブな感受性の質に大きく左右される。
人をどうみているかといった話のさらに前に、自分が自分をどうみて、接しているかが重要であるということ。私たちが他者に向ける眼差しは、実は自分に対して向けているそれと同じものだから。先ほど僕が書いた「人がつくった場で遊ぶ人」とか「みずから遊び場をつくる人」という人間の見方も、実は僕の話であって、それが僕のあり方の一部を成し、ひいては僕が関わる場の質につながってゆく。
ミルフイユから、場やプロセスのつくり方について書いてくれないかという相談をもらった。僕が欠かせないと思うポイントは、自分が感じていることを感じながら「生きて」「いる」ことだ。ワークショップであれなんでれ、場づくりに関わる人の仕事は、他でもない自分への感受性を手放さないことであり、同時に集まった人たち一人ひとりが自分を感じながらその場にいることの手助けだと思う。流暢な進行でも、楽しい体験づくりでもない。
自分を感じようとしない人の存在感は軽い。そういう人が多数集まると、耐え難いほど軽い場が生まれる。でもそれでは、生きている甲斐が感じられない。生き生きとした場をつくりたくない?
せんだいメディアテーク機関誌『ミルフイユ 02』より
by 2010/3/16