かかわり方のまなび方

12月から書店に並んだ前著につづき、もう一冊、書いていた本が形になりました。
これは、タイトルにもある「かかわり方」をめぐる本。教育やワークショップや、プロジェクトワークのファシリテーションなど、対人関与の技能や文化をめぐる、約10年分の探検報告です。


たとえば教師や親、看護や介護の仕事をしている方、編集者、プロジェクトのマネージメントやコーディネートを担っている方など、人にかかわり、その「力」を取り扱う働きを成している人々と共有してみたい!と思うことを、一冊に書き下ろしてみた。

核にあるのは、「どうかかわることが出来るかは、相手のことがどう見えているかによるのではないか?」という話です。どう見えるか・見えているかという、人間に対する視力の問題が、技術以前に大きいのではない?ということ。
本の中にも登場する、西田真哉さんや橋本久仁彦さんとの出会いが経験として大きく、デザインの仕事をしながら考えてきた「モノを見る力」やその解像度をめぐる認識が重なり合って、次第に書かずにいられなくなった。

橋本さんのインタビューは、本の中に二度登場する。その後半。「パーソンセンタードアプローチ」について彼が聞かせてくれた話は、僕の宝物です。


伊丹十三さんが昔あるエッセイで、「生まれてきた子どものことを親が、『この子には健康が足りない』『教育が足りない』『友だちが足りない』という具合に〝足りない〟存在として見れば、子どもも自分をそのような存在として認識してゆく。そしてその子が親になると、今度は自分の子どもを〝足りない〟存在としてみて、必要と見なしたものを与えてゆく…という連鎖が生じていないか?」、といったことを書いていました。
うろ覚えながら忘れられない指摘で。そうだなあ…と。
どう見ているか・見えているかによって、とる・とれる行動、接し方、かかわり方が決まる。
あと一ヶ月の命と診断された癌患者に、投薬を軸にした延命処置を行う病院と、モルヒネによる痛みの除去を行うホスピスの二種類のかかわり方は、人間観や生命観、人を見て・見えているかの違いによって分岐している。(どちらがいいとか悪いという話ではなく)

以前橋本さんに「参加者がどう見えているんですか?」と訊いたら、「一人ひとり別種の天然記念物のように見えてる」と。人間とか男だとか、銀行員とか、夫とかではなく、固有の「生き物」のように見えているんだな…。


でもそう考えてみると、デザインやモノづくりの仕事も、服をつくったり家を設計したり、人が口にする食事を提供する仕事も、ぜんぶ同じ話ですよね。

ページを開くと、東京自殺防止センターを設立して今も深夜の電話をとりつづけている、西原由記子さんのインタビューから始まります。
実はこのインタビューは、前著のために交わしたもの。終えてからどうしてもこの本に納めたいと思うようになり、三年ほど寝かしていた。
僕としては、この彼女のインタビューを読んでいただけるだけでも嬉しいので、買う気持ちにまでゆかない方も、この「まえがきのまえに」の部分だけでも立ち読みしてもらえたらなあと思う。
技術論やノウハウ本はもとより書けないので、姿勢やあり方をめぐるリファレンスとして綴ることになるわけだけど、「死ぬことを選択しようとしている人にどうかかわるのか?」という彼女の話から始めてみたかったんです。
技術より「真剣さ」の方が、僕は欠かせないものだと感じていて。精神論ではなく、実質的な話として。

第二章のお題は「ワークショップとはなにか?」。ワークショップについて学ぶ人たちの多くが辿りつく論文の1つ。高田研さんの、ワークショップの歴史と潮流の図や、それをめぐって中野民夫さんと交わした数年前の対話も載せることが出来た。
編集者は喜入冬子さんです。マガジンハウスや、現代思想などを経て筑摩に。梨木香歩さんや重松清さんの本、そして昨年出た平川克美さんの『移行期的混乱』をご担当なさっている。

その彼女がいちばん反応したのは、音楽家の野村誠さんのインタビュー(第一章に掲載)。いや本当に面白い! もっともらしい「べき論的ファシリテーション観」を一蹴する痛快さもあるし。
野村さんの話や、彼のワークショップを通じて考えさせられたことの一つは「ファシリテーション」と「パフォーマンス」の関係性なのだけど、今回そのことまでは書けなかったな。

内容と関係ない話ですが、折りの都合で最後に数ページ白紙がある。ノートの意図はありません。「番組終了まであと30秒ありますが、内容的には終わったのでここでさようなら」という、初期のテレビ放送のような感じ。
筑摩書房の通称「泥瓶」が付いてるのが、個人的に嬉しい。


とまあ、ふり返りだすとキリがないのですが、書店で見かけたら、ぜひ手にとってみてください。

by LW 2011/2/24