冒険や、自然学校の発見

写真は 地平線会議「地平線通信 3.11 NEWS」から(4/22撮影)
3/17から本日までの約50日間、半分以上の時間を RQ市民災害救援センター の活動に費やしてきました。


この動きを牽引している広瀬さんは、今年1月に開催した第3回・自分の仕事を考える3日間 の、初日のゲストです。
奈良でご一緒した人たちは、彼が20代の頃にインドで身体に障害を持つ人たちとの村づくりを行っていたこと。その後カンボジアの難民キャンプに入り、一人NGOとして活動していたこと。
そして、日本に戻って富士山の裾野にホールアース自然学校をつくってからも、阪神淡路大震災・新潟県中越地震・スマトラ沖大津波など、自然災害が発生するたびに、向こう数ヶ月間のスケジュールをキャンセルしてまっさきに現地に入り、その場で出来る支援活動を行ってきた…といった話を一緒にきいた。(参考:ホールアース自然学校のページ
その3ヶ月後にこのような事態が生じて、彼の働きを目の当たりにしながら、その動きに自分もコミットしてゆくことになるとは。

RQには、4月下旬にやっと直接話を聞くことが出来た、もう一人のキーパーソンがいる。くりこま高原自然学校の代表・佐々木豊志さん。
先週、登米市の現地本部で聞かせてもらった話を、忘れてしまう前に文章化しておきたい。以下、彼の語り下ろし形式で書かせてください。
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 3/11は、栗駒山でテレマークスキーのガイドをしていました。12名ぐらいのパーティーで山を下りてきて、森を抜けて、少しひらけた場所に出たところで地震が来た。
 3年前の地震(岩手・宮城内陸地震)と揺れ方が違った。揺れの幅が大きいし、ものすごい長くてね。「これは尋常じゃない」と。雪崩が気になったけどそれは大丈夫だった。
 すぐに娘が携帯に電話をかけてきました。災害発生の直後はまだつながるんです。前回の被災で学んで。
 自然学校に戻って、すぐツアーの参加者やスタッフの安否情報をブログに書いて、誰でも確かめられるようにした。これも前回学んだことです。

 揺れを感じながら、みんなわかっていたと思います。うちのスタッフは。これから何をするか? どうなるか?ということ。
 三年前の地震では僕らが被災して、みんなに助けられた。その恩返しをする番なんだって。
 うちの学校には馬とか沢山の動物がいるので、全員が離れることは出来ない。結局、二人のスタッフを残して山を下りたのだけど、このとき一時間ぐらい考えたと思います。「一体どこへ行くんだ?」って。
 まずは安否を確認しにいきたい。津波に襲われた三陸沿岸部には、うちのキャンプに来てくれていた子どもたちが何人もいます。
 安否がわかったら次は救援活動に入って、その後の復旧支援が何ヶ月もつづく。それにかかりっきりになったら(実際そうなったし、なっていると思う)、自分たちの学校の経営が成り立たなくなる。
 どのみち、春に予定していたものは催行出来ないだろう。にしても、どこまでやるんだ?どこに着地するんだ?って。でもわからない。
 なら、飛ぶ覚悟だけ決めて、1ヶ月ぐらい飛んでいればいいって。そんなふうに思って動き始めたんです。

 キャンプに参加したことのある子どもたちは、元気で家族をささえていてね(笑)。お母さん、電気なくてもご飯炊けるよって。

 自然学校には、大きく2つの軸があります。環境教育と、冒険教育。もちろん両方あるんだけど、くりこま高原自然学校の軸足は後者です。
 前者は自然について学ぶ。後者は、学ぶ環境が自然なんです。たとえば子どもたちと一緒に川で泳ぐとしますよね。「いつも泳いでるプールと、この滝壺。何が違う?」って、「危ない目にあわずに遊ぶには、どうしたらいい?」ってきく。
 すると子どもたちは、全部自分で決める。「この先では泳がない」「一人で行かない」「石を投げない」…川に行くと石を投げたくなるんだね(笑)。「んじゃ、それ守って遊ぼう!」って。
 自分で考えて、判断して。リスクを取りながら動いて、その結果でまた考えて。全人格的な成長のための環境として、野外や自然を捉えています。
 成長っていうのは、自分が安心していられる領域が広がることです。広がるためには、快適で馴染みのある領域から、少し外に出てみないとならない。冒険が要る。
 けどそこには未知で、容易ではなくて、あらかじめ保証のない世界が広がっているわけです。

 あの日(3/11)に山に来ていたグループのひとつは、ふもとのフリースクールの子どもたちで、引率はうち(くりこま高原自然学校)の元スタッフでした。
 RQのボランティアセンターはいま三陸沿岸部にいくつか出来てきているけど、そのひとつの河北VCは、地域の人たちから「来てほしい」と言われて入った場所です。川下りのキャンプでお世話になった中学校にも泥が流れ込んでしまっていて。
 うちの分校として、生まれてまだ間もないイーハトーヴ北上川自然学校のスタッフと、その元スタッフの二人が入って回しています。

 ここに自然学校が要ると思っています。この地域は、同級生を失ってしまった子どもたちが沢山いる。
 僕らはくりこまで、不登校やひきこもりの子どもたちとも関わってきた。こうした子どもたちは心の伸びしろというか、ハンドルのあそびのような部分が薄い。成長の話でいえば、馴染みのない領域にちょっと足を踏み入れると、すぐ不安になってしまう。
 そんな彼らとのかかわり方は、従来の冒険教育のやり方だけでは難しくて、心理的なケアが出来るメンバーの継続的なかかわりが必要です。
 この約1ヶ月、RQの救援活動と併行して僕は、プレハブではない仮設住宅づくりを進めようとしていたんです。
 一軒一軒が孤立して、さらに東京の業者にお金が流れてしまうだけの仮設住宅村でなく、地元の林業の支援にもなるような木造の仮設をやろうって。
 でも法律の壁と、行政の人たちに新しいことに取り組む心の余裕がなくて、なかなか進まなかった。
 そこで登米の市役所と相談して、仮設ではない本設の被災者支援住宅を、地元の材でつくるアイデアを進めたんです。これはうまくいった。建設費の調達にも目処がついて、住む人たちがコミュニケーションを保ちながら一緒に暮らせる、長屋式のつくりになっている。
 その企画書に被災支援期間後の用途案を書く必要があって、とりあえず「デイサービス施設」と書いて出したら、登米市の人が「それは他にもあります」と言う。「くりこまならではのアイデアを書いてください」って。で、「たとえば、親を失ってしまった子どもたちとか…」と言ってくれた。
 そうか!と思って。そういう寄宿の受け入れは、僕らがずっとやってきたことだ。自然学校で。子どもたちと一緒に過ごして、学んで、遊んで。その中で心理的なかかわりも行ってきた。
 飛び出したのはいいけど、一体どこへ行くんだろう?と思ったまま1ヶ月ぐらいずっと飛んで、本当にわからなかった。だから冒険ですよ(笑)。で、着地点が見えた。目印になるものが見えて自分の位置がわかって、役割がわかった。
 つい先週のことです。
(2011-4-25 佐々木豊志さん談)

by LW 2011/5/4