実際に「始めて」しまうひと

写真は、リビングワールドの近所の木立。
この季節は、木の形が透けてみえるのが面白いですね。どれも違うし、鳥の巣も見えたりして…。
 

来週土曜日・24日の午後、奈良の図書情報館のイベントで、「くるみの木」というお店のオーナー・石村由起子さんとお話しをします。(参加費無料/→申込制

くるみの木は、カフェと生活雑貨のお店。
今から22年前、線路沿いの元ゴルフ練習場の建物を借りて、ひとりで始めたとか。
人気のお店で、いつも女性客でいっぱい。

10年後に二軒目のお店を。そのまた10年後(2年前)、彼女は郊外に「秋篠の森」という場所をひらきました。二部屋だけのホテルと、予約制のレストラン、雑貨店が、竹林を背景に立ち並ぶ小さな場所。
彼女はここで庭の手入れをしていることが多く、「よく従業員と間違えられるんです」と楽しそうに笑っていました。

小さな頃から、家に来たお客さんにお茶を出したり、お食事をつくったり、寝床を用意するのが大好きだったとか。
お客さんが帰ってしまうのが嫌で、そろそろ時間だからと席を立つ人の袖を引っ張っていた自分を、今も覚えているらしい。

小学校の作文集に、なんと「大人になったら、お食事のできる宿をやりたい。名前は『くるみの木』。」と、書いていたそうです。

            *

石村さんの話は24日にとっておくとして、十年前、ロサンジェルスで泊まった、ある宿のことを思い出した。

この宿のオーナーも女性。住宅地の一軒家を改装した、小さなイン(INN)です。
大きなホテルと違い、顔の見える心づくしのもてなしを味わえる宿として、アメリカのトラベル誌に載っていた記事を友人が見つけて連れていってくれた。

当時、僕は働き方研究(自分の仕事をつくる)の取材を始める直前。
この宿での滞在中、オーナーのパッツィーさんに行ったインタビューのテキストを、先日発見。読み返すと面白かったので、再録してみます。
店や場所づくり、自分の仕事をつくるということに興味のある方は、どうぞ。:-)
 

The INN・パッツィーさんインタビュー

──世界中の気持ちのいい場所の大半は、デザイナー以外の人々によってつくられている。あなたはこの空間の全てについて、デザイナーが行うより、ずっと総合的なクリエイティブワークを行なっていると思います。

パッツィー:ありがとう。光栄だわ。

──あなたのように個人的な規模のインを経営しながら、リタイアメント後の生活を実現したいと思っている人は、アメリカにいっぱいいますよね。

パッツィー:ええ、そうね。

──したいと思っている人はいっぱいいても、実際に「して」しまう人は少ない。その違いはなにから生まれてくるのかに、興味があります。

パッツィー:いま私がしているこの仕事(インの経営)が、なにによって成立しているか。それには大きく分けて、三つのポイントがあると思います。

まず第一に、人を信頼できること、信頼すること。人に対する寛容さが、重要なポイントでしょうね。

第二に、夢中になること。自分の頭の中に生まれたアイデアや考えに完全に支配されてしまって、それ以外のことなんて考えられなくなってしまうくらいでないとだめ。そういう状態の自分を許容できないと、難しいでしょうね。

第三に、とにかく執拗であること。最後まで決してあきらめないことが、とても重要だと思います。

──なるほど。

パッツィー:このインを始めるまでの経緯を話しましょうか。土地は十年前に購入したの。そしてLA(ロサンジェルス)の南の方から、この建物を三つに分けて運び、移築しました。

最初の五年間は、この建物を使ってアパート経営をしていたの。すぐそばに大学もあるし、美術館もあるし。まあ悪くない場所だと考えたのね。
そして四年前からアパートを現在のインに切り替えて、今は二人のメイドを雇いながら働いています。

そもそも、なんでここを始めたかと言うとね、やっぱり私は人をおもてなしするのが大好きなのね。(この日の夜も小人数のパーティーを開いていた)

私がインを運営する上で何よりも心掛けているのは、くつろげる雰囲気を作りだすこと。みんながすごくリラックスできる、プライベートクラブのようにしていきたいと思っているんです。

私の母はガーデナー(園芸家)で、私自身もそうです。それに料理を作るのが大好きで、テーブルセッティングとかも好きで。お鍋とかテーブルクロスとか、いいものがいつの間にか、すごくいっぱいたまっていたんです。
家具や絵を選ぶのも大好きで、このインの家具も全部自分で選んでいるの。

──へーっ(すごいな…)。

パッツィー:でもね、最初からインの経営をしたいと思ってやってきたわけでもないのよ。要するに、ある段階から「言い訳」が効かなくなってしまったのね。

インテリアや、料理や、テーブル回りにお金を使うことだとか、それに懲りすぎること、時間をかけ過ぎることなどについてね。気が付いたら、何か理由がないと言い訳が立たないレベルにまで、足を踏み入れてしまっていた。

でもインを経営していれば、テーブルクロスが何枚あったって、誰も説明は求めないわよね。
実際、インの経営に関する本だとか、そういうのは一冊も読んでいないし。

──ええっ!

パッツィー:でも、本当にそうなのよ。インがやりたかったわけではないの。その時その時に、自分が正しいと思ってやってきたことが、何かこういう結果につながっているとしか言えないわ。

つまり、目標よりもそのプロセス(過程)を重要視して、歩きながら、行く先を決めて行くようなスタイルね。こういうのは、むしろ東洋的な考え方かも。少なくとも、アメリカ的なやり方ではないと思う。

でもね、だいたい何か決めてから始めたところで、思ったようになんてならない。いろいろ予想外のことが起こってしまうものなのよ。それを自分でコントロールできるわけではないし。

──たとえばこのインをやってくる間にも、いろんな問題がありましたか?

パッツィー:それはもう、大変なものがあったわよね。地震もあったし、暴動もあったし。
この辺りの隣人達も、最初はあまり良くなかったんだけど、自分がオーガナイズしていってすごく良くなった。その結果、LAPD(ロス市警)の特別パトロールを受ける地区にまでなったのよ。

何か始めようとする時、どうせああだろうとか、でもこうだろうとか、結果のバリエーションばかり思い描いていたら、何も始められないわよね。

──始める前に情報量が増えることで、逆に主体性が失われてしまうことは、日本の若い人たちを見ていると強く感じます。
選択可能な将来のイメージばかりが増えて、結局は何も選べないとか。または興味があることを見事にやりこなしている人々の姿を見て、自分にはああはできない、と逡巡してしまったり。

パッツィー:なにかを選んだり判断するためでなく、迷いを増やすために情報がある、とでもいった状況は、アメリカも変わらないと思います。

この辺りの地域のことについて言うと、私が土地を買って越してきたばかりのころは、さっきも言ったとおり、あまりいいコミュニティではなかったんです。(有色人種が多くて、夜はちょっと恐い感じ)

でも私は、インの前の道の掃除から始めました。

最初始めた時は、一体それが何になるのか、はたしてやる意味があるのか。道なんて、ほうきで掃いてもすぐまた汚れるし、そんな姿を見て近所の人達がどう思うかとか、いろいろ考えてしまいました。
でも、そういうこと考えだしたら何も始められないじゃない。そういうことを続けた結果、今ではコミュニティも変わったし、私は地域を代表する講演者として、LAPDに招待されるくらいになった。

インを始めたばかりの頃、顧客を得るまではそれなりに苦労もあって、何度ももう駄目だって思ったわ。
最初はオープニングパーティーを開いて、昔の法律家時代の友達とかに来てもらい、彼らに宣伝してもらって出張の時には泊まっていただくとか、そういう工夫もした。入門書は読まなかったけど、そういう努力はしましたね。

こういうふうにインをやっていられるのは、私自身の人生の経験が豊富だから、可能なんだと思う。
私は社会に出て、最初は学校の先生だった。そしてその次の職業は法律家だったのね。それらやその後の経験を通じて、いろんな人と、どんなことについても話をすることができる。

もし自分が若いころにインを始めていたら、それはまあできたかもしれないけど、内容的には全然違うものになっていたでしょうね。
反論する形ではなく、人に自分の意見を出して行く方法だとか、状況に応じて時には聞き役に回ることなんかも、ちゃんとできるようになったのは30才をすぎてから。まあ最近のことだわ。
そういう意味では私は遅咲きです。

学校の先生をしていた時、最初生徒達とうまくいかなくて、口論ばかりを繰り返していたんです。
でもある時、同僚の教育心理学の先生にすごくいいアドバイスをいただいて、それ以来、相手を信頼して人と接することができるようになった。それからはクラスルームと、すごくいい関係を結べるようになったんです。

──子供の頃、クラスではどんなポジションでした? またご両親から受けた影響のようなものがあれば、聞かせていただけますか。

パッツィー:父も母も、すごくエネルギッシュな人です。二人とも、疲れを知らない働き者とでも言うか…、非常に強い人たちです。
たとえば父は既に90才ですが、二年くらい前からコンピューターを学び始め、現在書き物をしています。

二人とも中西部の農村の出身で、ファーマーでありガーデナーです。ちなみに祖父母もガーデナーでした。
両親は二人とも料理が好きで、父は冒険的な料理に常にチャレンジしていたし、母はトラディショナルな料理家だった。鶏を使った料理では、その地方一帯で、うちの母にかなう人はいないくらいでした。

私はオレンジカウンティ(LAの南20マイルほどのところ)で育ちました。子供の頃はナーバスでおとなしかった。高校生の頃はクラスの人気者でいたくて…、今はずいぶん人気者になれたように思いますけど。(笑)

──これからのイメージがあれば、聞かせてください。

パッツィー:実は、隣の家と土地を借りたいと思っているの。現在のキッチンは手狭でね、特に食材とかのストッカーが不足しているんです。(確かに泊まった部屋の冷蔵庫には、アスパラガスがギッシリ詰まっていた)

それに、パーティー用のスペースももう少し広く取りたい。できれば、18人くらいのパーティが開ける広さがほしいんです。
とは言っても、別の物件に移って規模が少し大きくなっても、サービス精神は変えないから安心してね(笑)。泊まれる部屋は、べつに増やしたくない。パーティ用のスペースだけ増やしたいの。

で、その隣の家なんだけど、年内にはなんとかしたいと思っています。ただし私には、そのために必要なお金も揃っていないし、隣の家にしたところで別に売りに出しているわけでもないの。でも私はあそこに移るつもりだし、きっと移るのよ。(笑)

            *

パッツィーさんの宿が、その後どうなったかは知らない。ウェブで探してみたけど、よくわからなかった。
訂正:
友人のMが見つけてくれた(07-12-28) →The Inn at 657

この短いインタビューの中、子どもの頃に関する質問のあたりで、僕は彼女にこんなことを話していたようだ。

自分の将来はどうなっていくんだろう、自分の道はどこにあるんだろうと悩む人は多い。けど、その人の今日一日の中に、すべての未来は含まれていると思います。
同様に、過去の日々の中にもです。
自分はそうそう、”まるで違うなにか”になるわけじゃない。芽は、自分という同じ種から出るんですから。
(西村佳哲)
 

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by 2007/2/12