大磯にて

Tariho (Living World) 2007-11-04

ちょうど一年前くらいに、つのだたかしさんのリュート、波多野睦美さんのうたを聴きに大磯へ行った。会場は「海のみえるホール」というところ。

そこは、今から六十年近く前に、澤田美喜さんがひらいたエリザベス・サンダースホームにある、聖ステパノ学園の新しい講堂 。小高い山のうえにある。

お二人の演奏を生で聴くのも、このホールへ行くのもはじめて。すこし早めに着いたので、休日で静まりかえっている園内をすこしのぞいてみたりする。

長いあいだ丁寧に使われてきたであろう建物が、小山に寄り添うよう点在している。ベンチでおにぎりをかじりながら、連れが着くのを一人で待つ。まだ人があまりいなくてとても静かなひととき。

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ホールに入って驚いた。ガラス越しに海を見下ろす形で客席があり、舞台はその間にある。

演奏されるのは、15世紀~17世紀頃のイギリスの楽曲。ひとつひとつその古いことばの歌詞を、お客さんにわかるように、さらっと説明をしてから歌い出す。マイクを通さずに。「役割分担」だそうでリュートを抱えた、つのださんはほとんど話しませんと笑う。

そんな風にして、ひとつひとつ曲が続いていく。遠いむかしに音楽にこめられたものを、大切に扱っている感じがじんわりと伝わってくるようだった。

どんな音楽も、おそらく生み出されたときとはまた全然違うきらめきで演奏者を通じて、わたしに届くこともあるのだと思うけれど、その間はきっとどこかで繋がっている気がする。歌詞があってもなくても、いろんな音楽をきいていて、そういう瞬間にたくさん出逢うことがある。音を通じて時空がつながるような瞬間のことを感じる。

一年も過ぎて、ときどきぼんやり思い出すのは、『悲しみよ、とどまれ』という曲。愛しい人が去って悲しい。悲しみでさえも今はそばにいてほしい。といった内容だったと記憶している。曲がはじまると、だばーっと涙と鼻水でいっぱいになった。

わたしがそのとき感じたのは、悲しみといっしょに過ごすという感覚。愛しい人とは、家族や友人、恋人など、いっしょにすごした愛しい存在ぜんぶのこと。ともに在った時間は永遠に消えない。

さまざまな理由で別れという悲しみが生まれたときに、その悲しみに侵されるのとは、またちがって、悲しみにとことん付き合う。そういう時間があっていい。

演奏中もガラスのむこうには、鳥が飛び交い、木々が風にゆれる。遠くにちいさく波待ちのサーファーも。

帰りには、近くで釜揚げうどんをたべて、海まで降りて、住宅地をうろうろしながら駅へむかう。
路地には、猫がたくさんいたような。

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人ひとり通れるくらいの路地を、あちこちあてずっぽうに歩く。何回か曲がったら、行き止まり。そんなことをくり返していたら「大磯は行き止まりが多いから、細い道入っちゃだめだよ」と声がした。引き返してきた私たちをみて、庭先でパジャマに腹巻姿のおじさんが笑っていた。

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駅の方向を教えてくれたのは、古い動物病院の看板。ヘビもフクロウも、かたつむりもてんとう虫も大集合。犬の看護士さんかな? 猫さんを支えている。切り株に座る先生のスリッパが気になります。
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今日歩いたあたりはどこかしらと、家に帰ってからグーグルマップで反芻する。大磯には龍のような山がありました。

by tariho 2007/11/4