渡辺保史のこと

一泊の立ち寄りで、先週札幌へ行ってきた。渡辺さんの家族に会いに。渡辺保史は今年の6月、自宅で奥さんと一緒にいるときにクモ膜下出血で倒れて、近くの病院のICUに運び込まれ、残念ながら数日後に息を引き取ってしまった。

その前の週末には横浜でレクチャーをしていたようで、ウェブを検索すると、なにげなく存在する彼の姿が見れる。

彼とは20年越しのつき合いだ。まだ会社勤めだった頃、別府で開催された日出会議という国際フォーラムに参加したときに泊まった部屋が一緒だった。

それから会社の仕事を助けてもらい、勉強会をともにして、会社を辞めてから竹村真一さんの仕事場で一緒に机を並べ、その頃彼も勤めていた新聞社を辞めてフリーになったところで、センソリウムの最初の企画を上田壮一を交えて一緒に書き、故・森川千鶴を含む三人でテレビ番組を撮り、全国教育系ワークショップフォーラムも、最近だと清里の「つなぐ人フォーラム」もともにしてきた。

僕は彼のことが好きで、どれくらいそうかというと、たとえば30代前半の頃、ミーティングやイベントが終わって駅でわかれるときになんで別々のところに帰らないといけないのかわからないと思ったことさえある。
好きというのは少し違うか。性的なニュアンスはもちろんかけらもなくて、家族のような親しみを勝手に感じていたのだと思う。

先日渡辺さんの奥さんにも話したのだが、『自分の仕事をつくる』の最後の方に「実はわたしたちは、会社に能力を売っているのではなくて、仕事を買いに行っているんじゃないか?」というモチーフが登場する。
文字にしたのは30代後半だけど、それを初めて口にしたのは20代後半のある日、渡辺さんと会っていたときに「最近こんなことを思って」と話してみたところ、「わー、そうだよね」とかなんだか柔らかな共感が返され、それに力づけられて10年間ずっと手放さずにいた。
「いつか形にしないと」と思いつづけることができたのは、彼のなにげないリアクションによるところが、とても大きいと思う。

ちょっとした賛同や、面白がってもらえたという手応えであるとか。そうしたささやかなフィードバックが、人を育ててゆくように思えるのだけど、渡辺さんはそういうなにげないリアクションの泉のような人だ。
関心をもって聞いたり触れてゆける事々の幅が、非常に広い人間だった。そんな彼の資質に力づけられた人は、僕の他にも沢山いるんじゃないかと思う。

最初の写真は十数年前、カナダのジョンストン海峡に「オルカ・ラボ」を訪ねた数日間のひととき。渡辺さんはデッキに椅子を出して、なにかメモを取っていた。

「オルカ・ラボ」は、他には二人くらいしか人の住んでいない島にポール・スポング博士が建てた、オルカの生態を観測するための私設研究所。

海峡の数箇所に水中マイクを沈めて、オルカの鳴き声(コールサイン)を手がかりに群れの移動を追いかけている不思議な場所だった。

島の内陸部は、苔むした針葉樹の森。

清潔で気持ちのいいゲストハウスに泊まりながら、オルカの鳴き声、海峡を渡ってゆく船や、潮、月や、フクロウをはじめさまざまな生き物の音に耳を傾けた。「サウンドバム」というプロジェクトでの滞在。

博士の奥さんが焼くパンが美味しかった。

渡辺さんも、普段に輪をかけてのんびりしていたように思う。
でも働いてもいたな。これはスポング博士へのインタビュー中。フレームの右外には、このときビデオカメラを回していた上田壮一がいる。

さて。

札幌でご家族に会った後、四国を経由して、約一週間後に大阪で小さな取材をうけた。
そこに来ていた30代の若者は、大阪駅北口に最近できたナレッジ・キャピタルという施設のスタッフでもあり、他のメンバーとともに、ここ半年ほど渡辺保史さんからワークショップやファシリテーションを学んでいたんですよ!と、嬉しそう(かつ残念そう)に語っていた。

これからというところで、みなとてもショックで。
でもだから今まで以上に真剣に自分たちがやってゆくことについて考え・話し合っているとか、そんな状況を聞かせてくれた。6月末には全員でお通夜と告別式にも行ってきたと言う。

渡辺さんの家族を訪ねた一夜から始まった一週間ちょっとの出張の最後に、渡辺さんの存在に間接的にまた出会えて、その偶然にちょっと驚いたのと、なにより、なんだろう。

by LW 2013/8/16