時間をかけて

2014-10-5 西村佳哲

長野の渓谷沿いの、森の中にあるリトリート施設で、昨日まで七泊八日のワークショップ的な滞在をしていた。

そのメンバー(参加者・14名)の中に原研哉さんのゼミの卒業生がいて、彼女が語るデザインや、本人のいまの仕事の話がとても良く、研哉さんいい教育を実現出来ているんだなと嬉しく感じた。
嬉しく感じている自分のことも、嬉しかった。

10年20年たった頃に、その人がどう生きているかだよな。

教育は、世界を望む…いや世界に対するかな、フレームを提示してゆく仕事なのだと思う。本人によるその構築の初期段階に、協働的にかかわる。

以前、武蔵美・基礎デの講評会に招いていただいたとき、まるで原さんの仕事のような佇まいの作品をつくっている学生を散見して「同じふうになりやすいことを、原さんはどう思っているんですか?」と訊いたことがある。

極端な書き方をすると「自分のコピーつくってどうすんの?」という、批判めいた気持ちをもって訊いた。
でも、戻ってきた原さんの応答は僕にとってなかなか良くて。それは「似てしまうのは仕方ないよ」という一言だった。
つづけて「似てしまっても、どのみち本人がなるようになってゆくんだから」とおっしゃったかどうかは定かでない(たぶん言ってない)のだけど、そんな含みを感じながら原さんの言葉をきいていたのを憶えている。

学ぶ人の仕事が、先生のそれと似てしまうことは、別に気にするようなことではないな。

もちろんその先生が、彼らに「自分のようになること」を求め「自分が与えた範囲内で生きてゆくこと」をよしとする誘導を行っていたら、僕は強く「NO」を示すと思う。優れた影響力が、本人が本人として生きてゆく力を無力化する方向に作用するのは、いただけない。

でも、ある秩序を持つ先達。本人が憧れたり尊敬出来る存在と一定量の時間をすごすことで、本人が自分のエネルギーを、より秩序だった形でいかして生きてゆくことが可能になる。
卒業して7年くらいの彼女が、それを体現して見せてくれた気がした。

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14名のメンバーは、基本的に初めて会うひと同士が多かった。これは毎年秋口に開催している非構成的エンカウンターグループというプログラムで、なんのテーマも内容もあらかじめ持たずに、そこに集まった人が出し合うものだけで場で形づくられてゆく。

彼女の言葉は、七泊目の夜にきく場面を得た。
初日に聴いても「気の利いたことを言う子だな」くらいの受け取り方になっていたかもしれない。

七泊目にきいた言葉には、彼女が生きてきた人生の全水圧がかかっていて、それはただの言葉ではなかった。
その一部には、大学時代に原さんが口にした言葉も一部含まれていたかもしれない。でも、もう本人の言葉以外のなにものでもない感がありましてね。

僕にはどこか、要らぬ影響を人に与えてしまうことへの怯えがあるのだけど、そんなもの手放していいというか、相手を信頼することが大事だな。

その信頼は、相手がこう言ったから、約束したから…では得られない。口ではなんとでも言える。
でも、その人の口がただ話しているわけではない感じがする言葉は、生々しく、立体的で、本人の体温とちょうど同じ温度を持っているように感じられる。つまり身体の一部が言葉になっているというか。内容的にはたとえば自信なさげでも、きわめて頼りになる量感がある。

人の話を、時間をかけてきいてゆく空間は楽しい。

by LW 2014/10/5