with-ness

“ともにある”ということは、私たちの中に、また私たちの周囲に現実に存在するものを、見たり、聴いたり、それに触れたり、味わったりすることだ。

思考・感情・空想といった、個人に与えられた能力を結集することだ。
つまり人格としての自己に、面と向かうことである。

“ともにある”ということは、ささやかなものに心を寄せることだ。
…… 一枚の草の葉、飛び回る虫、ふくらみゆくつぼみ、巣立ったばかりの小鳥など。

“ともにある”ということは、美しい旋律に耳傾けることでもあるが、それと同時に、聞き慣れた音にも注意を向けることだ。
…… 吹きすさぶ風の声、軒端打つ雨の響き、道行く人の足音、幼子の泣き声などに。

カーム・クローネンバーグ・ムトウ著
『共同と孤立に関する14章』より

 
先週一週間、Tグループというワークショップのお手伝いで清里に滞在していた。大阪・聖マーガレット生涯教育研究所が年に一度、夏に開催している五泊六日のプログラムです。

上に転載したこの文章─「ともにあること」は、五日目の夜にスタッフが朗読したもの。
聴きながら、リビングワールドで試みたいのはまさにそこなんだよな…と感じ入った。

以前、同じたぐいの共感をおぼえた本に「大きな耳」があります。(アラジン・マシュー著/創元社)

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音を切り口にした本だけど、もし先の文章に感じるものがある人がいたら、「とにかく読んでみて!」と薦めたい一冊。
井上哲彰という方の翻訳も自然で丁寧で、読み返すたびに満たされる思いがする。

私たちが本当に生きているということ、この世界に在るというのは、どういうことだろう?
先のカーム・ムトウの文章は、こうつづきます。
 

“ともにある”ということは、彩り豊かな絵画に接することでもあるが、それと同時に、ありふれたものの姿に美を見いだすことだ。
…… バラの花の赤さ、思いにふける顔、新緑のみずみずしさなどに。

“ともにある”ということは、たがいに耳を傾けあうことだ。友情をもって接するとき、自分には役割があるという、生き甲斐が感じられてくるのである。

“ともにある”ということは、自己と他者の織りなす世界に関わることだから、一人楽しむ想像の世界にかくれ込んだりはしない。むしろ、人々の苦悩と努力に力を合わせるのだ。

“ともにある”ことの秘訣は、昨日と今日、今日と明日をつないでいる何げない出来事を、一つ一つしっかりと生き抜けるようになることだ。
 

by LW 2007/8/30

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