なんのためのデザイン?

来月下旬に河出書房新社から、新刊『なんのための仕事?』が出版される。昨年11月末から書き始めたもので、準備自体は約三年前から行っていた。

1月上旬に初稿を書き上げ、先週まで細部の調整をしていたのだけど、初稿前に途中まで書いて捨てたバージョンが何本かあり、その中に医療における倫理教育の話があった。備忘録を兼ねて、書き残しておこうと思う。

この十年ほどデザイン教育の一端に身を置きながら、自分は「デザインは一体なんのための仕事なのか?」「いまこの仕事の喜びはどこにあるんだろう?」といったことを頻繁に考えていた。

ある部分だけ見ると、世の中をただ嘘臭くするような働きをこの仕事が担ってしまっている気がしていて。
で、それはちょっと…と思うわけです。「そうじゃなくて!」という方へ向かいたい。
では、どうすればいいのか。

たとえば「美味しそうなラーメン屋さん問題」という問題系が自分の中にあった。看板や店のロゴまわりは美味し〈そう〉なのだけど、食べてみると「…」と、それほどでもなかったり。

 
詳しくは本に譲るけれど、デザインは人の情感に働きかけるので、精神面でも行動面においても、社会的な影響力が大きい。
しかし美大の授業で行われているのは基本的には造形訓練の積み重ねで、その力の取扱いについては、ただ本人の自覚に委ねられている。
少なくとも自分が通った美大のデザイン学部で、その講義枠に「倫理」の授業はなかった。

あっても担当の先生の趣味や生き方、個人的な好き嫌いや想いを伝えられているような感じで、一般論として示されないぶん、まだ健全だったと思う。「正しさ」は他人に教えるものでも、教わるものでもないだろう。義務教育課程をとうに終えている大学なら尚のこと。
大事なのは「自分で考える力を育む」ことで、倫理性は本人に委ねたい。
 

とは言っても、他の人間に与える影響があまりに強く、責任の大きい技能を身に付ける教育過程においてはどうなんだろう?

たとえば、人の生命を扱う医大の教育ではどうなっているのかな? ということが気になって、ある日、自宅の二軒隣の家を訪ねた。そこには川嶋みどりさんという女性が住んでいる。
川嶋さんは自分が幼少の頃からのご近所さんだが、日本の看護教育を牽引してきたその分野の重要人物で、現在は日本赤十字看護大学の名誉教授として全国各地の医療と看護の現場を飛び回っている。

昨日まで東北の被災地で、再建する病院をどのようなものにするか? という意見交換をしてきたという川嶋さんは、お茶を煎れながらこんな話を聞かせてくれた。
 

川嶋みどり 医大では、医学部でも看護学部でも、それぞれ概論の中で倫理を扱っているわよ。多くの教育機関では初年次に。大学によって最終年次にあてているところもあるけれど、生命倫理の授業がある。
 私も日本赤十字看護大学の看護概論で、この四年間、生命倫理学を教えています(と言いながら人間総合科学大学の通信教育の教科書『生命倫理学』の目次をひらいて見せてくれる)。

 遺伝子操作の問題から始まって、脳死や臓器移植、患者の自己決定権、そして人間の尊厳のような哲学的なことまで広く扱う。

 私自身は、哲学を先に学んでも役に立たないと思っています。だから看護学部の卒後教育の授業では、「本来してはいけない」と本人が感じることや、「して欲しくないこと」を自分の体験としてふり返り、グループワークを通じて共有して、その後で哲学的な理解につなぐようにしている。
 「やっては駄目だ」と知りつつやってしまっていることが、医療の現場においてあるものなので。

 でも倫理教育は、もともとは医学部にも看護学部にもなかった。始まったのは1970年代中盤からです。
 医学は生命と人間をあつかう仕事だから、もちろん倫理観が求められるけど、医者の権威は古くから絶対的で、医者が言うことは疑わない風潮が長かったから、倫理についても「教えるまでもない」感じだったと思う。

 けれど、医者と患者の二人っきりだったかかわりが、チーム医療になり。医療技術が新しくなるのと併行して、60年代から医療事故が増えて。
 同時に社会の趨勢として、患者側の権利意識も高まって。
 医学の領域では、前の戦時中に当時の医師たちが大陸で行っていた医療実験の実態を反省的に踏まえよう、という声も交わされるようになってね。それで教育課程の中に「倫理」が組み込まれるようになった。

 戦争と医学の関係は大きいんです。生命倫理にかんする最初の国際宣言はニュールンベルクの網領(1947)で、これはナチスによる医学実験への反省から明文化されたものだったの。

 日本にはいま80の医学部と、200の看護学部があります。医学部は明治からで看護学部は戦後。歴史は医学部の方が長い。
 看護師と医者では、医者の方が倫理観が薄いですね。なんでかって? 看護は人間を相手にする仕事だけど、医学は人間でなく病気を相手にしてしまいやすい。捉え方がどうしても部分的になりやすいんですよ。
 患者を一人の人間として尊重し、生まれてきた一人ひとりの権利がまっとうされることを支える仕事のはずなのだけど、その相手を人間でなく、モノ化してしまう部分があるの。(2011年11月末)

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医大の教育では、あたり前の話だけれど臨床実習を欠かさない。ウェブで読んだ話だが、たとえば慶應義塾大学医学部ならクラークシップというシステムがあって、5・6学年次において学生はある患者さんの主治医の一人になり、指導医とともに診療にあたってゆく学び方をとっているようだ。

これは大事なポイントだと思う。
今年度、卒業制作の指導(相談)を僕が担当した学生は、最初に交わした初夏のミーティングでこう語った。

「この三年間やってきた大学の課題は、どれも具体的な相手のいないシュミレーションのようなものばかりで、意味がよくわからなかった」

なので、自分ですべて決められる卒業制作では具体的な相手のいるモノづくりを試みたいと。(実際に複数名を対象にトライアルを行い、その中で感じ・考えたことを最後の講評会で堂々と述べていて立派だった)
 

最終的にはかならず人にかかわる影響力の強い仕事であるにもかかわらず、四年間のデザイン教育の中では、個別具体的な「あなた」に責任を持つ機会を含む課題授業は少ない。
で、その機会のなさは「デザインのためのデザイン」という指向性、あるいは「私が好きだから」といったモノづくりの姿勢に帰結してしまいかねない。

これは、たぶんデザインに限った話ではないなと、書きながら思う。

僕自身は現在、美大で倫理を扱う必要はないと思っている。みどりさんも話していた通り、理念が経験に先行してしまうのは良い流れではないと思うので。

個別具体的な対象に触れる機会があり、その対象を自分の都合に合わせて解釈しない注意を教師が示すことが出来れば、必要な真剣さと態度がおのずと生まれて、技術を学ぶ意味が感じられる路筋が生じるはずだから。

あらかじめ意味や成果が約束されている必要はないけれど、誰のため? なんのため? といった部分がスカスカでは、教育も仕事もキツイと思う。
 

by 2012/3/4