Mar 18, 2025

話がいきなり映画「ロボット・ドリームス」になりますが、ご覧になりましたか。私は結果二度見て、サントラ盤に浸り、下手をするともう一度観てしまいそうな昨今です。本書けよ、という気持ちもあります。

最初に観たときは、「ワールドトレードセンタービル描かないで」と思った(80年代のニューヨークが舞台)。それ描いても、あの頃の街の空気を懐かしんでも、現状の酷さはなにも変わらないじゃないか…とすこし肩を落としていた。

でも次第に心持ちが変わり、自分にとって大切なものや愛おしいものを、ちゃんと確かめて生きるのは大事なことだなと思い直すようになった。

私の場合9.11と呼ばれる2001年の出来事は、『自分の仕事をつくる』を書く直前、「サウンドバム」を始めて1〜2年目の頃で、10年後の2011年に今度は3.11と呼ばれる震災があった。

たとえばコロナ禍について「社会は決定的に変わった」という言い方をする人がいる。そんなふうにしたり顔でbefore/afterを語る方々に、「なに言ってんだ」「社会は変わりつづけているんだよ」と思うクチだけど、こうして振り返ると、2001と2011年の二つの出来事が自分の意識をより「人間社会」の方に向ける契機になっていたことがわかる。なってしまっていた、という気持ちだ。

いつも「社会」に気を取られて暮らすようになって長い。信じられないようなこと、唖然とするような出来事が、次々に起こるものだから。

でもその人間社会の外側というか大きな基壇部においては、日々淡々とくり返されていることごとがあって。毎朝太陽が昇り、その日の花が咲き、虫を追って鳥が動いて、気圧の配置が変わり、雲が流れ、波が寄せ、太陽が沈んで…という、まるであたりまえのようにくり返されるこのスペクタクルの素晴らしさを忘れていない? という自問が、いま一度強くなってきた。

私たちは、リビングワールド/Living World という名前の事務所を営んでいる。

立ち上げて「さあやるぞ」という直後にニューヨークであんなことが起きて、次第に〝生きている世界〟どころでなくなっていきながら、一人ひとりの中の方へそれを確かめに行く道筋が自分の場合「インタビューのワークショップ」だった。
めいめいの内側にひろがる世界を一緒に歩き、すでにあるものをわかち合う方法として「きく」とか「はなす」ことを掘り下げていたのだけど、あらためて、私たちの外に広がる自然界に窓をひらいてゆきたい気持ちが強くなってきた。

その気持ちと「ロボット・ドリームス」がなぜか重なる。ニューヨークは、アールデコでそびえ立った「人間社会」の象徴的な空間だけど、その中にあった時間を愛おしむ視線が。あと重力かな。

私がアニメーション映画が好きな理由は、画面上のありとあらゆるものが作者が思い描いたものである、という一点にある。

映画の中に現れる「壁に貼られた別の映画のポスター」や本棚の本、かけられるレコードの曲が、作者によるオマージュであることは多い。そこには意図や想いがあり、アニメ映画においてはそれがさらに全体化するわけだけど、極みは「重力」じゃないか。アニメーターが描かない限り、映画の中に重力は生まれない。これが実写との決定的な違いだと思う。

見応えのあるアニメ作品は「ジャングルブック」にしても「魔女の宅急便」にしても、重力の描き方が卓越している。映画館で二度三度観るに足るウェイトをもった仕事の固まりになっていて、本当に驚く。
全編にわたり重力に対するオマージュが表現されている、と書いたら言い過ぎかな。でもアニメーションにたずさわる人は、普段の暮らしの中で「重力ってすごいな」と思っているはず(想像です)。

いわゆる人間社会の外側で、日々淡々と流れている自然、あたりまえのような現象がとんでもないスペクタクルであるということ。それに驚いていたいし、十分に味わっていたい。人間社会の出来事に、心を振り回されたくない。
という気持ちが、最近観た「ロボット・ドリームス」からひさしぶりの「サウンドバム」まで一直線に並んでいるのを感じていて、それを書いておこうと思った。

サウンドバム|遠野 クイーンズメドウ編 w/川崎義博
2025年5月12日(月)〜15日(木)

https://note.com/lw_nish/n/ne96f36872518