Aug 1, 2021

3月から7月まで「インタビューの教室」を開いていた。7/17に最終回をむかえたグループ3のメンバーが、「2週間ぶりに集まろう」と声をかけてくれて、昨晩オンラインで他愛のない時間をすごした。

ある人は、いつも後ろに見えていた部屋から。ある人は友だちの別荘から。ある人は昼の熱気でヘトヘトになって横になったまま、ビデオオフで。屈託のない世間話を交わした。

その中で一人が、「インタビューの教室が終わってから、仕事でつくったインタビューのテープ起こし原稿の見え方が変わった。『こんなことを話していたんだ』って。これまで見えていなかったことがあるんだなって、あらためて驚いた」と楽しそうに聞かせてくれて、それはよかったです。なによりです。ありがとうございます、と思いながら聞いた。

 
この4ヶ月間は自分にも貴重な体験だった。コロナ前は年に2回くらい、日常を離れた五泊六日の空間で集中的に「きく/はなす」ことを扱っていたけど、今回試したオンライン編は週一プログラムなので、結果的にその間ずっとそのことについて考えている状態がつづく。日常生活の中で。参加メンバーもそうなのだけど。

「きく」ことについて、どこかわかったような気持ちになっていたことを、あらためて感じ・考え直すことが出来て、この仕事はまだつづけられるな、やっぱり面白いし奥深い…と新鮮な気持ちになった。

初々しさはとても大切な資源だと思う。

 
いまライフワークのようにつづけている「インタビューのワークショップ」や「教室」は、人を癒やすとか、悩みを解消するとか、成長させるという目的を持っていないところがとてもいいと思っている。

そもそも癒やしも、悩みの取り扱いも、成長も、本人が「する」ことであって他人が「する」ことじゃない。他人に出来るのは「本人がするのを可能にする」程度のことで、中心人物は常にその人自身だ。

でもあらかじめ効果をうたうワークショップや講座の類いは、これに参加するとなにが得られるとか、わかるとか、どうなるこうなると自分を商品化する。その商品が欲しい人が集まったところで、売り買いが成立するだけじゃないか。

30代前半からワークショップやファシリテーションの勉強をつづける中で、自分がひとつプールの底を蹴った感を覚えたのは、カール・ロジャースの「パーソンセンタード・アプローチ」(PCA)との出会いだった。出会いは本という形ではなかった。概念に触れる前に、それを体現するかかわり方を見せてくれた先輩が何人もいて、彼らの「感じ」が自分の中に残っている。

概念として知ることと、経験を通して知ることは違う。先にたっぷりとした経験があって、あとから概念(言葉)が付いてゆく順番が理想的な学び方だと思うけど、パンチライン化した概念が先にボンボン飛び込んでくるのがまあ情報化社会だよねー、とは思う。

その頃、まったく別文脈で出会ったアンドレ・レニエの言葉、

〝どうか僕を幸福にしようとしないで下さい。 それは僕に任せてください。〟

は秀逸だったな。
レニエは19世紀のフランスの詩人で、詩集や小説を残しているけど読んだことがない。けどまあなんていい立ち姿の言葉だろう、と思った。

人を癒やしたり、悩みを解消したり、成長させようとまったく思わない。いま互いに生きていることがわかって嬉しい。それで十分じゃないかと思う。


昨日から上間陽子さんの『海をあげる』を読み始めた。上間さんは教育学の先生で、沖縄の夜の世界で働く若い女性の話を「きく」仕事を重ねている。

『海をあげる』の冒頭にその時間について「インタビューの帰り道、女の子たちの声は音楽のようなものだと私は思う」という表現があり、人の話をききながら自分が感じているものと近いかもしれないと思った。

この本は短編集だが、最初の一篇「美味しいごはん」の余韻が大きくて、なかなか次に進めない。昨日から何度もA面の1曲目をかけなおしている。

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