
Dec 31, 2021
12月中旬。夕暮れの「かま屋」の様子。閉店後の食堂であの彼と彼女が、加工所であの彼女が働いている。フードハブ・プロジェクトのメンバーはみんな働き者で、いつも誰かが夜遅くまで残っている。
民間とはいえ地方創生の流れから生まれた会社だから、始まって間もない5年ほど前は「行政が民間の飲食店の立ち上げを支援するってどういうこと?」と難癖を付けられることも多かったろう(理由はちゃんとあるが、たいてい陰口で直に返せる機会が少なかったはず)。けど、彼らの姿や様子は、国道を通りがてら多くの人が目にしてきて、「ともかく一所懸命働いているね」という了解は得られているんじゃないかと思う。
見えるって大事ですね。同時に、見えない部分を想像出来る力も大事だと思う。
数日前、朝日新聞・Fさんの取材を受けた。『自分の仕事をつくる』をふりかえる取材で、その中で「やりがい搾取」の話になった。
搾取は、それが働く人と頼む人のあいだにある限りは扱いやすい。本人が「これは搾取だな」と思い、「つづけたくない」と感じたら、離れればいいわけだから。
問題はそれが内在化されているケースだ。たとえば、本人の持ち前の優しさや倫理観が、看護や介護の仕事を「やりがい搾取」的にする。自分で自分を搾り取る(搾取する)ように働くということが起こる。
この辺りから話はトワイライトゾーンに入って、「やりたくてやってるんだよね」という働かせる側の見解と、「好きでやってんだ(ほっといて)」という働く側の立ち位置と、「とは言えなんか都合よく利用されていない?」という疑念が鎌首をもたげたり、わからなさが密度を増す逢魔が時になる。本人どころか他人(親や友人)が「それ搾取だよ!」と騒ぎ出したり。
私はデザイン畑の出身だし、高校・大学の頃は漫画家との付き合いも多く、「得意なことをこれでもかってくらいやる」姿をこれでもかってほど見て育ったので、自然にそう働いてしまうところがある。自己搾取は日常化していて、よく言えば手の抜き方を知らない。
そんな私に「やりがい搾取」について訊かれてもなあ…という感じで、なんかモゴモゴ話し、「それよりも感情労働の方が辛い」と話を横にスライドさせたのが数日前だった。
働くことの主権を本人から剥奪してはいけないし、やり甲斐をテコの支点にして、他人を「働かせて」はいけないと思う。人が人を利用してはいけない。尊厳を脅かすことになるから。
頼まれている以上によく働くことを「搾取」にしない方法は、働く人と、その仕事を頼む人が、支点・力点・作用点の三つについて十分語り合うというか、認識を揃えて仕事を進めることだと思う。オープンカードで。たとえばお金の話はわかりやすい支点の一つですね。
でも仕事を、頼む側と、働く側にわけて考える図式がそもそも違うんだよな…。
頼まれていないことまでするのは、仕事を〝自分の仕事〟にするシンプルな方法だ。これはフリーランスでも会社勤めでも、誰でも手元ですぐ始められる。やりすぎた分は確実に自分自身の経験になる。
しかし、頼まれてもいなかったその働きが「仕事」になるには、それをちゃんと受け取れる器が相手に要るし、受け取られたとき、それは自分の仕事というより〝自分たちの仕事〟になる。
『自分の仕事をつくる』というタイトルで書いた本が、10冊目で『一緒に冒険をする』になっているのは、そいういうことなんだろうな。