Feb 2, 2022

濱口竜介監督の『偶然と想像』を観た流れで、先日、フレデリック・ワイズマン監督の最新作『ボストン市庁舎/CITY HALL』を観た。4時間半の長尺ドキュメンタリー。

彼の映画では、ニコラ・フィリベールのそれと同じく説明的な要素が排されている。構成はあるけれどストーリーはないし、ナレーションもBGMもない。世界にBGMなんて付いていないので(一部の商店街には付いていて鬱陶しいが)、ドキュメンタリーのあり方としては「だよね」と思う。

ワイズマンは映画をつくるとき、事前にあまり調べず撮影に入るらしい。「市政には無知と言っていいくらいだった」とある。撮りながら対象を理解してゆくスタイルで、結果的に映画を観る私たちも同じ経験をする。突然なにかのミーティングルームに通されて、なにが話されているのかも誰がどんな役割なのかもわからないまま、その人たちが語り合う様子を見渡してゆく中で次第に状況を把握してゆく。

頭や心を動かしつづけることになるので面白いが、これはここ6年ほど、自分が神山町で体験していた時間に似ていると思った。町役場と地域公社をつくり、役場の内側に半分身体を置くようにして働いたわけだけど、私も行政の現場は初めてで、「こんな委員会があるんだ」「こんな朝礼をするんだ」「異動の辞令が降りる日はこんなふうになるのか」という具合に、目の前で起きてゆくことを見ながらその世界を理解していたので。

『ボストン市庁舎』には職員の仕事ぶりだけでなく、複数のミーティングや、委員会、各種団体の会議、ギャザリング、警察署の朝礼など、さまざまな集いの場が映し出される。そこには多様な人種がいて、多様な立場の人がいて、しかしその場に出てきようのない人たちがいることも語られていて、市民社会の厚みに圧倒された。

ここで描かれている「公・共・私」は、日本では「公共」と「私」に二分していて、その公共、端的にいえば行政は弱体化している。この再構築と同時に「共」の領域の拡充が要ると思うが、働かないといけない「私」たちは仕事や子育てや介護に忙しくて、社会のことは後回しだ。

誰だって、この社会の評論家や解説者になりたいわけではないだろうし、自分もそうだけど、戦い方がわからない。勝つための戦いじゃないと考えればいいのか。

 

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