
Apr 5, 2022
3月末に広島現代美術館で行われたトヨダヒトシさんのスライドショーは、学芸員の竹口さんいわく「まるで夢のよう」な一夜だったそう。写真を送ってくれた。
トヨダさんが投影していたその頃、私は神山で各地から集まった十数名と、田瀬理夫さんのレクチャーを聞いていた。自分が「この人は先生だな」と感じる人は、年上であれ年下であれ、みんな素直さが卓越している。信じていることや愛していることに、屈託なく全力を注いでいる。
広島現美で配られたパンフレットには、私がトヨダさんについて書いたテキストが掲載されている(以下転載)。
彼も、田瀬さんも。たとえば新潟の「エフスタイル」の星野さんと五十嵐さんも。今日の昼を一緒に過ごした「心に風」の、どいちなつさんと加藤さんも。先週・先々週神山を訪ねてくれた友人たちも。みんな同じ一派だな…という気持ちだ。
ほかでもない自分の人生を
私には人知れず「裾野派」と呼んでいる一派がいて、彼らはアーティストであれ経営者であれ、自分の道を歩くことに注力している。共通するのは「山頂を目指してはいない」点だ。
てっぺんをとるとか、一番になるとか、社会的に優位な存在になるといった高みを目指す努力や才能を軽んじたいわけじゃない。山頂はあくまで比喩であって、さらに比喩をつづければ、山が高くなることで表現領域や職域が広がる良さはあると思う。けど、そういうことを自分の仕事とも、生き方としても捉えず、ただ野山を逍遙するように生を充足させている人々の存在を感じていて、彼らを勝手に「裾野派」と呼ばせてもらっているわけだ。
裾野派は勝ち負けのない世界を生きている。トヨダさんはその希有な旅人の一人で、最近仲良くなった。
彼のスライドショーは、筆や紙をカメラやスクリーンに換えた、いわば俳句表現の一形態のようにも見える。短い定型詩に比べると投影時間は長いが、季語にあたるなにかがあり、音律のくり返しに相当するカットがあって、なにより経験を再生する装置のあり方に相似性がある。たとえば椅子に腰を下ろした観客と、脚立の上で映写機を操作するトヨダさんが「同じ方向を見て一緒に過ごしている」あの構造だ。写真の内容と同じく、隣人的だなあと思う。
広島市現代美術館のニュースレターで、中学生のワークショップに触れた彼が『課題ありきでなく内的動機というか、自分の内側から出てくるものに出会えてもらえたら』と述べているのを読んだ。これはとても大事な話だと思う。
他人が言い切るのは少し変な話だけど、トヨダさんは〝いい写真を撮ろう〟としていない。〝写真表現の可能性を拡張したい〟とも思っていないだろうし、〝写真を撮ろう〟とすら思っていない気がする。社会的な課題ではなくて、個人的・個別的なものに取り組んでいるし、もっと言えば、なにかを「する」というより「おこる」ことの方に集中していると思う。
意識が外へ向かいやすく、そっちに合わせることを求められがちな今の社会で、自分の内側から生まれてくるもの、植物でいえば「茎を通じて花を咲かせる力」のような動きを中に感じながら、内と外を一致させてゆく。この世界にそんなふうに居る方法を、映像日記という形で見つけ出してきた彼の歩みが他人事ながら嬉しい。
山頂は一つに集約されるけれど、裾野は全方向に広がっている。本人が、ほかでもない自分の人生を生きていると感じている人の多い社会で生きてゆきたい。トヨダさんの仕事を見ながらいつもそう思う。◆


