Sep 25, 2022

なにを学べるとか、成長できるとか、出来るようになるといったことをまったく謳っていない「箱根山学校」を始めて約8年。先週末の三泊三日、陸前高田で20~30名とすごした。

今回はリピーターが半分、初めての人が半分。気持ちのいい人々が集って、場の隅々にいい時間が流れていた。イベントの主役は参加者だとつくづく思う。

プログラム中「定点観測」という言葉を口にする人が何人かいたが、自分のありさまや変化を、日常的に接点のない人々との出会いを通じて確認できる時間になっているのだろう。あと、陸前高田というまちの変化。

集合日に自由参加のツアーがあり、気仙沼から高田に移動しながら、大急ぎの大規模工事が投入されたまちの変貌、いまは穏やかな海の姿、この間に生まれてきた仕事や取り組みの現場をいくつか訪ねて回った。

私は震災のあった2011年の12月に、ある団体から相談をもらい高田へ行った。以前、震災の2ヶ月後に一人で東北をまわったときも通りがかかったが、気仙川の河口の橋は落ちたままで、だいぶ上流に回り込まないと渡れない。このときは迂回したまま遠野へ向かった。内陸には内陸の被災があった。

同じ年の12月に高田を訪ねると、地域の経営者が何名か集まって「仕事をつくる10年期限の会社」を設立していた。彼らにかかわることになり、知り合った長谷川順一という建設会社の若い代表に親しみを感じ、話を交わす中で「箱根山テラス」の企画が進んだ。

財源の相談、デザイナーの紹介、当時不足していた現場監督の紹介など、手伝えることを手伝いながら「つくる」側にいたが、竣工して開業した2014年からは「つかう」側に回ろうと思い、定例の予定を入れるような気持ちで年に一度の「箱根山学校」の企画を持ち込んだ。10年やろうと話し合って始めたので、数えでいうと残り2回になる。

わたしたち(自分と妻)は、箱根山テラスの開業と同じ年に移り住んだ神山町での仕事と暮らしに区切りをつけて、今年の春、東京の家に戻った。戻ってみると、家にあった新聞や雑誌の切り抜きは10年前で止まっていて、時間が一巡したというか、一つの輪がとじた感覚がある。

私は11年前、陸前高田の仕事の相談をもらったとき、とても緊張したし怖かった。その怖さの正体は神山でわかった気がする。

先週末の第8回・箱根山学校には、及川恭平さんという地域の若手が顔を出し、3年目になるワインづくりの話を聞かせてくれた。

被災時、彼は高校2年生で、本人いわく「戦場」のような状況下で進路を決めることになり、それまでになかった想いを持って地元の将来と、自分の人生を考えた。卒業。商社での仕事。フランスのワイン農家での滞在を経て、帰国後自分の農園をひらき、この秋はシードルの出荷を始めている。若い人の10年ってすごいな!

でも私にも、みんなにも、それぞれにそれぞれの10年があって、順一さんは今回「もう3.11の話はしない」と話していた。先述の「10年期限の会社」もまもなく解散するはず。今年はなんとなくリセットの年。

箱根山学校に集まった人たちにもそれぞれの10年があり、そしてこれからの時間がある。節目に立ち寄って自分のいまを確認し、よく温まって、それぞれの現場に戻ってゆく時空間をつくり出せるなら本望だ。学ぶことだけが「学校」の機能ではないと思う。

箱根山学校では食事がとても重要な要素で、南風食堂の三原寛子さん(ミハ)がその中心を担っている。

参加者はみんな食欲が旺盛で、ミハたちは「焚いたお米がすぐなくなる!」と悲鳴を上げていた。とくに女性が「すすむ、すすむ」と三杯目をよそっていたなあ。

以前私の「インタビューのワークショップ」に参加した男性も来ていて、みんなの前で、最近ちょっとした事件があり大きく傷ついたことを漏らしていた。肩も落としているふうで気になったが、ご飯どき、美味しそうに食べている姿を見て安心した。食欲があれば大丈夫。身体は生きようとしている。

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