Nov 19, 2023

思うところあって、モネの模写をはじめた。東京都美術館/とびらプロジェクトの小牟田さんに道具を借りて、とびらメンバーの9名もそれぞれが選んだ絵をいま描き写している。

モネは水面に浮かんだ睡蓮と、映り込んだ空や木立、そして水の深さとか、いろんなものの姿を色と筆づかいで描きとめている。絵を見ていると、100年以上前のある庭先の、ある時間が流れ出てくるのが面白い。

油彩は初めてで、「こんなに乾かないのかー!」とか「キャンバスの上で色を混ぜるんだなー(粘土造形っぽい)」と愉快な体験をしている。先日アーティゾン美術館に行ったら、絵が「絵の具」に見えた。

昨日、外を歩いていて。本当にいい天気で。空の雲が、陽の光を孕んで内側からたくさんの色を滲ませているのを眺めながら、「この雲をどう描く」と思っている自分に気がついた。空や雲を見て「なんて美しいんだ」と思うことはよくあるけど、「この美しいものを描けるのか?」と思ったのは初めてで、驚いた。
 

模写に惹かれたのは随分前で、1996年の別冊太陽『赤瀬川源平の印象派探検』に、南伸坊さんや藤森輝信さんなど、彼がまわりの友人に声をかけてひらいた誌上企画「模写美術館」があった。「いいなー」と指をくわえていたそれを、27年後の11月にやっている。

赤瀬川さんの巻頭の文章が好きで、なんども読み返している。今朝、書き写してみた。

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 日本人は印象派が好きだとよくいわれる。美術館でもデパートでも、印象派の展覧会はたくさん開かれていて、みんな満員だ。たしかにみんな印象派が好きで、ぼくも好きだ。

 でも日本人だけじゃない。じつは世界中印象派が好きなのである。ある友人がヨーロッパの美術館へ行って、そこには中世やルネッサンスから現代までの作品が飾られていた。古い時代のところからお客がばらばらといて、印象派のところでみんなたくさん溜まって見ているという。

(中略)

 印象派の絵には初々しさがある。十九世紀の終わりごろに描かれた、新しい自然描写の絵のひと固まりである。その後たくさんの画家たちがたくさんの絵を描いて現代にまでつづいてきているのだけど、どうしてもあの時代のひと固まりの印象派の絵が珍重される。
 よくいわれるように、それまでの暗い室内的な絵を捨てて、明るい外光の中での自然描写をはじめたのが印象派である。それまでのいろいろこり固まった観念を捨てて、はじめて自然の風景に対したのだ。

 風景の中の光と色を、そのまま正直に描こうとしたのが印象派である。それまで風景画といえば何か有名な風景がほとんどだったが、印象派の画家たちはただ光と色を求めて、名もない風景に夢中になった。
 いつもその中を行き来しながら、見過ごしていた身の回りの風景である。その風景の中の光と色に目覚めてしまうと、その美しさがどんどん見えてくる。見えても意識に止めていなかった現象が、見ようとするだけでどんどん見つかってくる。

 印象派の絵は観察の絵である。見えるものをその通りに描くだけで、生き生きとした絵が生まれる。その通りに描こうとするほど、絵は透明になる。だからその観察と描写の中で、画家の個性というものがどんどん蒸発してゆく。ひたすら究めようとする自然描写の中では、その人の「俺が、俺が」の自意識というものが足手まといになってくるのだ。
 だから印象派の画家たちの絵は、どれも似ている。彼我の違いを強調しようという気持ちは飛んでいって、自然をつかまえることに夢中になっているのだ。その夢中の中で自我が消えてしまった風景画の、何と透明で気持ちのいいことか。

別冊太陽『赤瀬川源平の印象派探検』より

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