Sep 4, 2024

机にずっと向かっている日もあれば、複数名と山あいで過ごしている日もある。仕事は日替わりで、自分のそれは、どれも「企画」で出来ていると思う。企画を仕事にしてきた。

この件には変な記憶があって、理由をつけてはサボったり理由もなく遅刻していた高校時代、進学校で授業にほぼついていけなかった、つまり間違いなく居心地が悪かったはずの教室の後ろの黒板に「ニシム企画」とチョークで書いて、それを眺めていた日があった。(ニシムは当時の呼称の一つ)

クラスメートの誰かが隣にきて「なに?」と訊いてくれて、「なんだろう」と返した気がするのだけど、実際わからなかったはずだ。「企画」という言葉の意味もまだほとんど知らなかったし、なぜ書いたのか、自分も不思議だったということがあった。

わからないまま先へ進んで、大学ではデザインを学び。働くようになって、結果的にはデザインでなくデザイン・プランニングの仕事を重ねていくようになる。
でも、ただプランニング(企画)だけをすることに意味が感じられず、プランニング&ディレクション(気持ちは〝企画と実装〟)という形で取り組むようになり。請け負いの仕事の他にも、自分で考えて、形にして、販売する商品をつくり始め。本を書き。イベントやワークショップをひらくようになったその先でまちづくりの一端も担って東京に戻るとそれなりの年齢になっていた。一気に書くとその間の苦労がまったく感じられなくていい。

で、東京に戻ってから、企画と別に増えた仕事に「応援」がある。
友人から相談をもらって、その人の活動や経営する会社のミーティングや、合宿や、組織や働き方の再構築を「応援」している。

一般的にはファシリテーションやメンタリングやグループコーチングにあたると思うし、福祉の領域なら伴走型支援と呼ばれる関与形態だと思うが、自分には「応援」という言葉がフィットしている。ただ誰にもそう語ってはいないし、看板に掲げるつもりもない。

「応援以上のことは出来ないんだぞ」と自分に釘をさしている気もする。つい持ち前の「企画」を作動させて、「こうするといいんじゃない?」と提案を始めてしまいやすいので。
あと、その友人たちそれぞれのことが好きで、かつ尊敬しているのだと思う。どの人も到底自分にはできないことを担い、その実現に力を尽くしている。昨日は約60名ほどの面白い会社で、代表やリーダークラスの10数名とみっちり6時間のミーティングを……そうだな、やっぱりファシリテートというより応援していたと思う。

見上げるように感じている気持ちが「応援」という言葉をつれてくるんだろう。この感覚は大事にしたい。